心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

【大河ドラマ】そもそも歴史をベースにしたフィクションである(自戒)

先日書いた、今年の大河ドラマ「光る君へ」の第1回感想に対してとあるコメントを頂きました。
コメントを書いてくださった方には申し訳ないのですが、ちょっと非公開ということに。個人的には読ませて頂いて非常に勉強になった部分もあるのですが、どうも根本的な部分で自分のスタンスとは相容れない部分があったので。

今回はその辺の話を少し書いてみようかなと思います。といっても、記事のタイトルでほとんど説明してしまっているんですけど。

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まず頂いたコメントについてなんですが、内容のメインは第1回にて描かれた藤原道兼のキャラクター性への批判でした。
「あんなに粗暴な人物ではなく、むしろ冷徹に権謀術数を巡らして遂行する人物である」ということを『大鏡』から該当箇所をかなり長いこと引用して説明してくれていたのですが……うーん。

そもそもの話なんですが、大河ドラマはあくまで「ドラマ」です。今回ならば紫式部を主人公として、彼女の人生と生きた時代を描く「フィクション」です。
歴史に詳しい人ほど陥るんですが、この前提が抜け落ちることが多々ある。そうなると「史料とはここが違うじゃないか!」みたいな話が出てきます。今回頂いた藤原道兼に対するコメントなんかはまさにそのパターンなのかな、という感じです。
自分も戦国時代は大好きですから、このパターンに入りかけることはかなりありますね。そういう意味で自戒でもある。
史実を史実の通りにただ映像化するのであれば、それはドラマである必要性が逆説的になくなってしまうわけでして。むしろ「史料ではこうなっているところを、今回の大河ではこう味付けしてくるのか」というのを楽しむ遊びが視聴する側にないとしんどいのかなと思います。

昨年の「どうする家康」は、結局自分がその辺の遊びを楽しめなくて脱落したわけですが。ここは家康の脚本と自分がとにかく噛み合わなかったってことですね。
これに関しては「史実に残されている家康とドラマの家康が違う!」みたいな話ではなくて、あくまでもドラマとしての味付けが自分と噛み合わなくて脱落したって話ですから。


今年の大河ドラマに限定して言えば、今回コメントしてくれた方は『大鏡』を引き合いに出して藤原道兼のキャラクターに言及してくださったわけですが、根本的な話として今回の大河ドラマは『大鏡』ではありません。脚本を書く上で参考にした可能性はありますが、だからと言って『大鏡』に記載されている通りの道兼にする義務もないわけです。描きたいのは「大鏡に記載された藤原道兼」ではないですから。
そうなると、そもそも「大鏡で記載されている道兼と違うじゃないか」と言われても「まあそうですね、今作は大鏡ではないので」で済んでしまうような気もします。

Wikipedia藤原道兼を検索してみると、以下のような記述になっています。

性格は非常に冷酷で、人々から恐れられていたという。また、面倒で意地が悪く、長幼の順序もわきまえずに、兄の道隆をいつも諭しているようなところがあった。一方で老成して男らしい人物という評価もある。

どうですかね。これを読む限りでは、今作の大河ドラマにおける道兼にもいくらか通じる部分があるように感じるんですけれども……。

というかまだ初回の放送。この時点では道兼もまだ若い。
ここからドラマが進む中で道兼も成長し、冷酷さだけが研ぎ澄まされる一方で暴力性は落ち着くような、それこそ『大鏡』で描かれるような藤原道兼に成長する展開だって大いにありますから。花山天皇を騙して出家させる頃には、ドラマ内の道兼も狡猾な怖い人物に進化していたりしてね。むしろそうなっていったらめちゃくちゃ面白いんだけどなあ。あの容赦のない冷酷さに、謀略を張り巡らせる知性が備わったら本当の意味で「怖い」人物になりそう。

まだ40話以上あるんだから、そうやって予想したりする部分も楽しみたいですね。
明日放送の第2回ではどんな展開になるやら。あらすじでは、早速兼家が息子・道兼に命じて、天皇を退位させるべく暗躍するようですが……。