だいぶ前に、たぶんTwitterで見たと思うんですが。
自己肯定感が低い人は、プライドが高いことが多いみたいな説。
これ理論立てて説明されるとかなり信憑性があって、実例なんかを考えてみるとさらに真実味が出てきます。
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自己肯定感を構成する要素の少なさ
まず自己肯定感が低い人は、イコールで自分自身に自信を持てるパーツが少ないってことになります。
これは実はなんでもいいんですが、ゲームが友達より少し上手いとかそういう小さなことでもいいんですよね。「これは得意だぜ」とか「これについては人よりちょっと詳しいぞ」とか。
大谷翔平とかでもない限りは、一般人はそういう小さな自信をたくさん積み上げるのが自己肯定感なのかなって。
ほぼ全ての人間が、ある分野において全人類の中で1位ということはあり得ないわけです。そうなると色々な分野でちょっとした自己肯定要素が組み合わさることで成立しているのが、自己肯定感というものなのではないかなと思うわけです。
理想はそういうの関係なく、なんとなく根拠も理由もないけど自己肯定できている状態ではあります。
ただ普通に生きているとこれってなかなか実現しない気がする。色んな本や思想を学ぶことで辿り着けるエリアだと思うので、普通の人は社会との繋がりの中に自己肯定の縁を求めてしまうのだと思うんですね。
心のカップの大きさ
で、同時にそうやって自己肯定感を高めるパーツが多い人は否定された時の許容量も多いというか。
例えば先の話で言うと、ゲームが上手いと思っていたけど自分より上手いやつが出てきた。
そうなると「ゲームが上手い」という要素での自己肯定感は少し減るわけですが、他にも色々あればまだ余裕がある。「趣味で週末にスパイスからカレー作ってる」とかでもいいですね。こういう他人との相対軸ではない自己肯定は特に良いと思います。
逆説的に自己肯定感が低い=自己肯定感を高めるパーツが少ない人は、その数少ないパーツを否定されると残りがなくなります。
そうやって自分の中身が無になることが怖くて、キレたりする。プライドが高いってのはこの構造なのでは……というお話。
要するに自己肯定できる要素が自分の中に少なすぎる場合、それを否定されることは自分の存在そのものを否定されていることに近づいていくわけです。残りがないからね。
だから注意されたりすると素直に受け止められなかったりする。それを受け止めるだけの自己肯定感の余裕が心にないから。
ある種の防衛機構なんだと思いますが、これがプライドが高い人のシステムっぽいです。
引きこもりの少年が突如キレて……みたいなやつ、こういう文脈もありそうだなと思うんですね。
そもそも社会との繋がりが希薄な時点で相対的な自己肯定をするための材料がほとんどなく、社会的に何か貢献できているという実感もない。
そういう状態で自分を否定されるようなことを、親から言われる。あるいはネット掲示板とかで匿名どうしではありながらも自分を否定される。
そういうことをされた時に、それをそのまま受け入れると自分という存在そのものの否定に聞こえてしまうんじゃないかなあなどと思うわけです。
なんかこの辺も加味すると、いわゆる「社会に複数居場所を持っておいた方がいい」という話もよく分かります。仕事以外に社会との繋がりがない場合、仕事でミスをしたりした際に上手いこと逃す場所がなくて壊れてしまいそう。
そこで習い事とか何かしら、他にも自分の居場所を用意するだけで変わってきますよね。仕事以外の自分の自己肯定感を高めるパーツになる。
何かしら趣味と言えるようなものは持っておくべきなんだろうなあと。自己肯定感が低い自覚がある人ほど、むしろどんどん新しいことにチャレンジする方が生きるのが楽になると思いますが……その一歩を踏み出すのが大変なんだろうなあ。
