心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

やはり性善説は信じられない

「そうであってほしい」と「そうである」は全く違う。
性善説を信じる人には、その根拠を示してほしいわけですよ僕は。むしろ性善説を否定できるような根拠しか自分には見つけられないからね。
自分だって性善説が真であるとは思いたいが、残念ながら性善説が真であるという結果を導き出せないんだよね……。

ということで、先日このブログでも触れた歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレ。
実際に使用できるようになったわけですが、割と地獄みたいなクソキモい実情が早速明らかになっている。

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どういう状況になっていたかというと「用を足すわけでもない男性が、ただジェンダーレストイレの中にずっといる」状況。気持ち悪すぎる。
もう目的がバレバレじゃないですか。というか、この程度の事態が発生することが想像できていないとおかしいんですよね。こんな状況になってるのがもう分かったわけで、少なくともこのトイレを使おうという女性がどの程度いるのか。というか男だけど自分も気持ち悪くて使いたくねえし。
対策として監視体制を強化するみたいなことは表明していたけど、そもそもそこまでしないと危険なトイレってなんなんですかね?

なんというか、この状態だけでも性善説は成り立っていないのが分かるというか。
この行為ってもう性欲を抑えない悪意でしかないわけじゃないですか。で、そんな性欲は動物として根源的なものなので、それを理性によって抑えているのが人間。そしてその理性が「善性」の一つの形だし、それが他の動物と人間とを分ける決定的なもの。
「人はそもそも善である」のなら、そもそもこんなことにはならないと思うんですよねえ……。


多分生まれてそのままの人間は善でも悪でもなく「動物」なのです。
食いたいものがあったら奪ってでも、相手の命を奪ってでも食う。野生の動物はそう。こういうのは動物としての生存本能だから、厳密には悪ではない。ただし人間社会においては人のものを奪って……みたいなのは悪です。
だから親や学校、周囲の環境から後天的に「動物的本能に身を委ねるのは社会的に悪いことですよ」と学んで、善性を獲得するのだと自分は思っています。そういう意味で性善説は残念ながらあり得ないよね、というのが自分の現状の考え方。
性善説が成立しているならそもそも教育(学力という意味ではない)が必要ないじゃん、とは思う。道徳の授業とかね。

孟子は「人間の本性は善であり、悪は物欲によって心が覆われることで生起する後天的なもの」と説いたようですが……そもそもその「物欲」、もっと拡大すると自分の思い通りにしたいという「欲望」自体がそもそも動物的本能と密接に繋がっているのだから、この論理は成立しているんですかね……と自分は思います。
欲望自体は非常に強いエネルギーだし、必要不可欠な力だとも思う。だからこそ理性によって折り合いを付けるというか、道は外れないように欲望を叶えるような道を模索することが「善」なんじゃねえですかね、とかなんとか。

ということまで考えると、まあ今回のジェンダーレストイレの中にずっと突っ立っている男性……みたいなおぞましい欲望は普通に終わっていると言いますか、善性を獲得できなかった人間の末路感があります。
「これは本来持つ善性が、性欲によって覆われて生起した悪である」というのが性善説としての立場の解釈になるのかな?と思うんだけど……うーん。納得できるかね、これ。