心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

めちゃくちゃ可哀想な人なのかもしれない

以前書いた、勝手にやりたくない仕事をやらないように選択して仕事している同僚について。まあ同じ仕事をしているが会話したこともなく、向こうから一方的に嫌われているっぽいしこっちも仕事以外に接点持つ気もないからいいんだけど。
仕事に対するその傾向は今も相変わらずで、そうやって自分はやりたくない仕事を誰かに押し付け、それでいて自分は押し付けられた人と同じだけの給料をのうのうと貰っているという構造は実に剛腹なんですが……。

そういうことを一旦抜きにしてその行動を考察してみると、トータル人間としては結構可哀想な人なのでは、と思うようになりました。
まあぶっちゃけ、そうやって考えでもしないと、見えることになるその人の仕事のやり方に毎日イラつくだけだし、そうやって内心でキレそうになってる自分にも嫌気が差すので、ここで文章化してある程度ガス抜き。当ブログのタイトルに相応しい「心の雑草」ですな。

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根本的には社会人が何やってんの?って話なんですが、そもそも社会人になるまでに積んできた経験値が現在の行動のベースになっているのでしょう。
ということはこれまでの人生で、基本的にやりたくないことに直面した時にこういう逃げ方してきたんだろうなあ、さらにそれを正してくれる人にも出会えなかったのかなあ……とか考えてしまいまして。

逃げるにしても逃げ方ってものがあります。楽をしたいならその対象自体から逃げるのではなく、やり方を工夫したりして楽にしていくのが正しいと思います。逃げるにしても成長性のある逃げ方しないと。創意工夫を「逃げ」と呼ぶかは怪しいですが。
仮に完全にやらないという逃げ方をするにしても、そのやり方が甘すぎてこうやって他者から普通にバレてるのがまた。この辺りを加味しても、なんつーか総合的に子供のままなんだなと。やるならバレないように丁寧にやらなきゃ……ね。
正直幼稚園児か何かを見ている気持ちになってきたんだな。

そんな自分を変えようという意志もないからずっと変わらないままなのだろうし、自分の私的な感情と仕事を分別することもできないという。自分のやっていることで間接的に損をしている同僚がいることも意識できていないわけで、他者の立場で物事を考えたりもしていないのでしょう。
「やりたくねーけど仕事だし、お金もらってる以上はやる」が仕事だと思うんですよ。少なくとも雇われている立場ならそう。それがどうしても無理なら「自分で仕事を選べる」立場になるしかないんじゃないですかね……?

社会人にもなると、今更それを修正してくれる人なんて出会えない可能性の方が高い。基本的には自分で変えるしかなくて、この辺が学校とは違う点。自発的に学んだりしない限りは実質無理でしょう。
となるとずっとこの行動・思考システムで物事に対処していくことになるんだろうけど、どうやっても回避不可能な事態に直面したらどうするんだろうなって。こういう逃げ方のクセが付いてしまうと、いざって時に立ち向かい方が分からなくて完全に詰みそうだし、何よりこれからの人生の長さを考えると高確率でそんなことくらい起きますよ。
今の職場がその辺りに対して驚異的に甘いから見て見ぬふりされているけど、これで将来的に困るのはそうやって見逃されている当人な気がします。わざわざ助ける気もないけど、人生を自分からハードモードにしているように見える。大丈夫なのかな……。