心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

優しさは賢さ

ふと思ったんですよね。
優しい人は割と賢いことが多いと。

ここで書く優しさは、仕事にしろ趣味や遊びにしろ、あくまでも自分の領分のことはちゃんと行なっている上での優しさを指す。
例えば仕事で、人の仕事を手伝いすぎて自分の仕事が進まないというのでは本末転倒だしね。これは優しさとは言わない気がします。

スポンサーリンク



余力がなければ優しくできない

ということでまず優しさ、つまり人のために思考したり行動したりするには、それを行う分の余力がないとできない。これは自分の領分のやるべきことをやった上で、まだリソースが残っているということを指す。

結局これが賢さとも直結していると思っていて、その余力が生まれるくらいに賢く物事に取り掛かっていて、自分の分を効率良く処理できているということの証明だと思うんですよ。
自分の分をやってまだ余裕がある→だからその余裕分で手伝えるのです。仕事でも遊びでもね。

一方でそれがちゃんとできている賢い人は、自分の状況を高い精度で認識できているので余力がない状態では「今は手伝えない」とちゃんと伝えることもできる。むしろここまでできて真の優しさ感はあります。
できもしないことを請け負って「やっぱりできませんでした」っていうの、もちろん状況にもよるけど期限付きの仕事なんかでやってしまってはむしろ悪手だしね。

想像力がないと優しくできない

そしてもう一つ。そんな「自分の領分を賢くこなす能力」だけがあっても実はダメで、その上で必要なのが他者が何を考え、行動しているかを想像できる能力。自分はこれももう一つの賢さだと考えているので、2輪の賢さタイヤがあって初めて優しいと言えるのではないかと思います。

例えば自分のやることがひと段落して、周囲を見回すとまだ忙しそうにしている。
この時に「何かできることあるか?」と考えたり、その忙しくしている人の行動や普段のやっていることを想像してサポートアクションを行う。
このようなことは想像力がないと当然できない。
だから余力だけがあっても、それを優しさのアクションに変換できない人がいます。
悲しいのはそれができる上で「自分が苦労したくないから」見て見ぬふりをする悪賢いタイプもいることですが。

自分は明確に言語化できないのがもどかしいものの、今まで生きてきた経験として「情けは人の為ならず」
という言葉は真であるという実感を得ているため、それが本心からの優しさかは自分でも捉えきれないものの、とりあえず人には優しくしています……少なくとも自分に対して敵意を向けてこない人に対しては。
その方が自分が楽になるから、みたいな利己的な理由も多分に含まれてはいるけど、やらない善よりやる偽善って言葉もあるしな……。

今の職場について一つ。悲しいけれど「余力はあるけど人のアシストはしない」というタイプの人間が結構多いんですよ。自分の仕事が終わったらそれで本当に終わって、ただ座ってるだけみたいな。いや「何かやることありますか?」とか上司に聞けやと思う……まあ最近は本当にやること無い時間もあるんですけどね。
これが想像力や視野のなさからくるのか、それとも極端に自分のことしか考えていないのか……。

自ら能動的に考えるというフェーズ

ここまで書いてきた「余力」と「想像力」があって、さらに必要なのが「それらをどう活かせるか」を自発的に考える力。
人のために動ける状況が揃っても、その状況をどう使うかが考えられなければ結局動けません。例えば想像力という力があっても、それを他人の困っている人の状況を想像するために使われなければ結びつかないわけでして。
結局余力や想像力だけがあってもまだ足りなくて、それらをどこに向けるのかを思考できる能力も必要ってことですかね……。


ということで近いうちに、今回の話から紐づけて「接客業の経験の有無はマジでデカい」を書きますよ。接客業はやるべきことのリソース配分、他者の思考と行動をイメージする能力、どちらの成長にもダイレクトに繋がる業種だと思いますのでね。