
- 作者: 坂口恭平
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/05/18
- メディア: 新書
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昨日この本を読み終えたので感想でも書こうと思ったのだけれど、むしろこの本のメインではない部分に非常に興味を惹かれたのでそこにフォーカスしてみることにする。
躁状態の時はそれはそれはアグレッシヴに活動するのだが、鬱状態の時は行動するわけもなく、そして死にたい、やがて死に方なんかを考え始めてしまうのだという。……身に覚えがないとは言えないぜ。
第4章・3節。「絶望眼の使いかた」の項から引用させて頂きながら、私なりの「鬱状態の利用法」について考えてみようと思う。
死のうと思うこと。絶望すること。実はそれは力だ。ただ、それは何か行動を起こそうとする力ではない。自分が大きな眼になるような力である。
前から私もちょいちょいこのブログで言及していたんだけれど(してたよね?)、ネガティヴな感情や性質というのは、使いようによって「力」となるわけだ。根性なしであることを私は誇っているし、尊敬できる人がいないこともメリットだと思ってるわけで。
行動力が著しくロストする代わりに、外でおきていることだけではなく自身の内面まで観察できるようになるのが「鬱状態」というモード。
だったらこの時期を生かして、普段行動中には見えないモノを徹底的に観測すればいい。そして見えてきたモノを忘れないようにして、行動力が戻ってきたときに生かすのだ。
ちなみに私も中学生のころは結構な躁鬱気質だったと思う。
テンションが高まっているときはなんでもするが、鬱モードに入り、ひどい時は2週間ほど半不登校といった具合。本当に大変な人とは雲泥の差かもしれないが、多少は苦労しているのだ、私もね。
で、今では躁鬱のどちらも表面化しにくい感じになった。いい傾向だと思う。
これは私の躁鬱病が治ったというわけではなくて、コントロール出来るようになったといった感じのほうが近いだろう。
哲学書とか思想書とか自己啓発とか読んでいるうちに、「鬱状態で観測したことをロジックで組み直す」っていう回路が私の中に出来てきているのではないか、と思う。
例えば「死にたい」と思ったら。
「死ぬのは多分苦しいよなー」とか、そういう死に対するネガティヴな感想と同時に「死んだ後周囲に迷惑かかりまくるよなー」とか「そもそもなんで死にてえんだろう?」とか、「死に意味がないなら死んでも無駄じゃね?」とか「生きてたほうがメリット多そうかも」とか、感情も論理計算もごちゃごちゃしながら、「やっぱ死ぬのやめとこ」となる。
やりすぎて「死にたい」って考えることはなくなってしまった。
「死にたい」と思ったら「死とは何か?」とか考えてみると意外と面白いよね。まだそこまでの余裕があれば、なんですけど。
そこでネットとか本とか漁り始めると、そういう答えの出ない問いについて考えること自体が生きる意味になってたりする。
……何が言いたいかわからなくなってきた。
だから鬱病と言わずに、千利休病とでも言えばいいじゃないか。「おれ今、ちょっと千利休っぽくて」とさらっと言えば、新しい生活の匂いがしてくる。
こんな素敵な言葉があったので紹介。
千利休は一見美しくない茶道具などに「侘び寂び」を見出したわけだけど、これは「見る」という行為の果てに到達したのではないか、つまり一種のネガティヴィティの先に「侘び寂び」が生まれたのではないか説が坂口恭平氏の説。
鬱病じゃなくて「千利休病」。いいですね、コレ。
文化の匂いが致します。千利休病なら患ってもいいんじゃない?みたいな。
私の中には未だに鬱の気質は潜んでいるんだけど、それを「観測する力」として転化しているのだろうなーとは思うのである。
明らかに本を読む量とか増えてますしね、はい。
「鬱病」を否定する必要はないと思うのよ。その行為自体が追い詰めてさらに苦しくなるし。
それよりもちょっと頭をひねって「鬱病をどう利用するか」を考えてみるってのはどうですかね。
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