心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

遊びと学びは地続き

先日Twitterで、子供に一切ゲームを与えないで育ててきた人のツイートを発端に「そもそもそういう育て方は危険ではないか」という方向で色々な人が私見を述べているのを眺めていました。

で、その中でだいぶ鋭いというか辛辣というか、そんな私見を述べていた方がいまして。
実体験も含めてめちゃくちゃ首肯してしまったので、ちょっとそれについて書きたいなと思います。

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賢い子が勉強“だけ”しているわけがない

こんなこというのもアレですが、自分もどちらかというと勉強はできた方で(数学だけは壊滅していたけど)、それなりの進学校を卒業した身なので、学生時代の友人達の感じも込みの実体験として。
基本的に自分も周囲も、ちゃんと勉強はするし同時にちゃんと遊んでもいたわけですよ。

子供にゲームなどの遊びを与えないで育てて、その上で賢い子になって欲しいと考える親。
これに関しては、その親がそもそも頭があまりよろしくない可能性が考えられますね。学生時代に自分が勉強は“せずに”遊んでばかりいた結果残念な仕上がりになったばかりに、頭がいい学生の生活を想像できない。体験していませんからね。
つまり「賢い子は遊んだりせずに勉強だけしていたんだ」と勝手に推察した結果、子供から遊びを取り上げてしまっているのではないか……ということをTwitterで書いている人がいて、マジでコレだなあっていう。

生きていれば分かってくることですが、勉強も遊びも等しく「学び」です。というか生きていればほぼ全て学びになり得るわけです。
遊びを奪うってことは、そのままその子の学びの機会の半分くらいをゴッソリ奪っているってことになります。
例えば友達同士で集まって、ニンテンドーSwitchでゲームをすることが人間同士のコミュニケーション能力を育てる学びでもあることを、親が認識しているかどうか。
自分のような学生時代は基本買い切り制のオフラインゲームしかなかった頃ですら、色んなゲームをやっているうちに気がつくと漢字の読み方とか覚えていたりしましたからね。

一見関係ないこと同士が突然結び付いて閃くようなこともしばしばあって、これが起きるにはとにかくなんでもいいから知識や経験を増やしておく必要もあります。
ゲームで無意識のうちに学んだことが勉強に役立ったり、逆に学校で学んだことがゲームをしている時に使えたりすることもありますね。露骨だけど信長の野望とか、歴史系のゲームはその辺直結していると思います。高校時代は太閤立志伝5をめちゃくちゃやっていたから、日本史の織豊時代あたりはなんの勉強もしないで点数が稼げるボーナスエリアでした。あんまりテストに出てこないけどね。

重要なのはバランス

ってことで親として本来やるべきことは、その機会自体を取り上げることではなくてそれぞれのバランスを取ってあげることです。
ゲームばっかりやってるならそれを諌めるという、よくありがちな光景がやっぱり正しいのだと思います。

そもそも自分が勉強を全くしないで、遊んでばかりいたから上手くいかなかったのなら、勉強も遊びもどちらかに極端に偏らないようにしてあげるのが正解……ってたどり着けないから残念なのか。
「ゲームは一日1時間」みたいな言葉、ある種の真理なのかもしれません。高橋名人としては自分が書いているようなバランスの話というより、そうやって予め定めた時間でしっかり集中してゲームを遊ぼう!という趣旨のようです。これはゲームだけじゃなくて、勉強も外での遊びも、それぞれに対してのメッセージだったらしい。ゲームだけじゃなくて、若いうちにもっと色んな経験しておけよっていうことのようで。
うーん、高橋名人めっちゃいいこと言ってますやん。


まあ、なんだ。
遊びを「遊び」としか認識できていないから、はじめから子供にゲーム機自体与えないみたいな選択肢を取ってしまうのでしょうね。

生きている限り、すべての経験は網目上に接続してネットワークを作りますから。
今の自分で実例を一つ挙げると、ウイスキーが少し水を加えるとそのままより香りが強く広がります。
これはなぜかといえば、アルコールには香りの成分を吸着する性質があるため。だから加水してアルコール度数が下がることで、香りが出てくるわけですね。
趣味のウイスキーと、アルコールに関する化学の知識がここでクロスするわけです。生きてりゃこんなことばかりですからね。