- 作者: ネルケ無方
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2012/06/15
- メディア: 新書
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マイブームである仏教の本のひとつ。
ドイツ人でありながら、ただひたすらに坐禅に打ち込む曹洞宗のお寺の住職を勤めている方の「坐禅入門書」とでも言うべき一冊。
そもそもの坐禅の姿勢とか、坐禅中の心構えとか、そういうことを何も知らなかったということを思い知らされた。
坐禅専用の座布団があるとか、普通知らないよね……。
足の組み方も本来は決まっていて(無方住職はどちらでも良い、と本著で説いているが)、右が上か左が上かで呼び方も異なる。
また先にも述べたように坐禅専用の、お尻の下に入れる座布団があったりして「ああ、これがないから姿勢がテレビで見ているのとは違ってしまうのかなあ」と思ったり。
目は開いたままで行うというのも、知らない人にはなかなか衝撃なんじゃなかろうか。
とはいえ興味深く読み込んだのは「坐禅の意味」の部分。
悟りを目指そうとして坐禅を組むのだろうけど、その「悟りを目指そう」というのが既に雑念。悟りたいと考えている限りは悟れないというジレンマ。
坐禅の目的は坐禅をすることにある。
坐禅中は何も考えず、自身の呼吸を感じる。
「坐禅をしている自分」を捨て、自分が「坐禅」そのものになっていく。
この「〜そのものになる」というのは、哲学者、西田幾多郎が説いた純粋経験にも近い考え方で面白かった部分。
やはり仏教での到達点というのはアートマン=ブラフマン。
「梵我一如」
なのかなあ、というのが。
「自分=坐禅」に至った時、それは一つの梵我一如だと思うのであります。
先日書いた自己肯定感の話なんかでは「自分」という意志を強く持つ「有我」を強調している私だが、そんな私が好きな仏教では「無我」を道の先に置いてくる。
このへんは我ながら矛盾なんだけど、でも相反するっていう気はしない。感覚的なものなので説明が難しいのだが。
「無我」状態における自己肯定か。
「そもそも我が存在しないのだから自己肯定が必要なし」とかに落ち着きそうではあるけど、もう少し考えてみたいテーマである。
読了しました:「ただ坐る」 ネルケ無方著