先日書いたこれを読み返しながら、自分で結構真理に近いこと書いたんじゃねえかな?と思った一節があって、それが最後の
自分自身を観測してるってことは、自分自身から離れているとも言えるわけだし。
ですね。もうこれ無我です。
- 作者: アルボムッレ・スマナサーラ,前野隆司,ネルケ無方,永井均,石川勇一,中川吉晴,パイサーン・ウィサーロ,浦崎雅代,アチャン・ニャーナラトー,横山紘一,三砂慶明,井上ウィマラ,大谷彰,藤本晃
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2017/05/01
- メディア: 単行本
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コギトエルゴスム。「我思う、ゆえに我あり」ですが、その「ゆえに我あり」の我はどこから定義してんの?ってのはよく見かける突っ込み。
これシンプルに、最終地点がないやつで「ゆえに我ありと思う、ゆえに我ありと思う……」的な無限ループ。
まあこれにゴールを作るとしたら、「我が存在しない」も一つの選択肢かと。
実体験として、上手くやると「イライラしている自分」を観測する「イライラしている自分を客観的に見ている自分」に移行することが出来るわけだけど、これまた「イライラしている自分を客観的に見ている自分を見ている自分を……」みたいな感じで、理論的には無限に続けることが出来る。必要性がないから1度目の観測だけで済ませますけどね。
んでこの観測自体が、ある種自分からアウトサイドに出ている行為なのかなと思う。自分を捨てている。無我への第一歩感。
そんなこと書きつつ、職場への不満とかスマホゲームでレアキャラ出ねえとか、そんなエゴは強いけど。全然我が消えない。
「我が消えない自分」をアウトサイドから見ていこう、うん。