心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「自己肯定感」が欲しいなら「他者からの肯定」にすがるべからず

自己肯定感ってどうやったら上がるの? - はてな匿名ダイアリー

池上彰さん的な言い方をすると「なかなかいい質問ですね」って感じである。

一応人並みに生活できてるけど、仕事も趣味も人付き合いも容姿もどれも全然自信持てない。
誰からもそれを指摘されたことはないんだけど、自分としてはどれも自信もてなくて、常にこんなんでいいのか迷いっぱなし。


趣味……は別としても、仕事、人付き合い、容姿、こういったものの評価基準には「他者の視点」が否応無しに影響してくる。
「指摘されたことはない」とは言いながらも、裏を返せば常に「どう思われてるんだろう」とそわそわ、不安になっているということではないか。

「自己肯定感」の話なのに、「他者による肯定」をどうしても意識してしまっているような気がしてならない。


同じような人って結構いると思うんだけど、個人的には「自己肯定」とはエゴイズムであり、ナルシシズムであるわけで、他者の評価に依った自己肯定なんてものは不安定極まりないので捨てましょうって、そんなお話を少々。



自己肯定感~黙って受け入れてくれる人の大切さ - いつか朝日が昇るまで
こんな記事も読ませて頂きました。「自己肯定感」をテーマに書くのが若干流行ってるのかな?


まあ、子供の頃はいいんです。他者との関わりを学び、その中で自己肯定を育んでいくものだしね。


ただし大人になっても他者の関わりの中で生まれる自己肯定感をトップに持ってきて生きるのは、個人的には甘っちょろい回路と言わざるを得ない(他者による肯定を否定してはいないが)。
環境は変わる。時間、場所、所属する集団、そういったものであっという間に変わる。そしてもちろん周囲の人間も変わるわけで、つまり「自己肯定感」を構築するファクターも簡単に変わる。


そんなもんにすがって自己肯定感を得ようとしても、危ないと思いませんか?

人というものは簡単に手のひらを返すものです、冷たいようだけれど。
一度のミス、一度の遅刻、そんなもので簡単に肯定は疑心へ、そして否定へと変わるもんなんです。

自分でコントロールできない他者の心に起因する「自己肯定感」なんて、そんな危ないものはないと思うのです。



「自己肯定」はあくまで「自己」で行うものである、と。


小さい頃に親や周囲の人間から肯定される経験が少ないと、自己肯定をしにくい回路で育ってしまうような気はするのだが。とはいえいい大人がそれを理由にはできまい。


自信なんて強いものである必要はないが、とりあえず「私は私だ、人は関係ない」という考え方を半ば刷り込むところから始めるしかないし、いつだって自分が正しいのかどうかは「他者」ではなく「自分」に問いかけるものだ。
間違いを犯したら、そのミスから成長する自分を肯定する。モノは考えようである。


個人的に「自己肯定感」のキーポイントは
・自分の中に自分という評価者を作る
・否定要素は見方を変え、肯定要素として捉える
・人のことは気にしない(これが難しいんだろうけど)

この辺。
意識していくだけで変わっていくと思います。
そもそもが自己肯定できてる人のスパイラルモードの部分なんだけど、だからこそ意図的に変えていくだけでスパイラルに入れると思う。

もちろん自己中心的になる危険も孕んでいるので、そのあたりはちゃんと注視しましょうね。


ナルシストで、モラリストで、エゴイスト。 - 「げ」の一歩 改
既視感があるなあと思ったら、少し前に書いたこの記事だった。
「オレカッケー」なんて典型的な自己肯定ではないか。