心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「悟らなくたって、いいじゃないか」をようやく読了

しばらく書いてなかった読書感想系記事。読んではいた、読んではいたんだけど……インプットはすれどアウトプットは出来なかった、いや、面倒だからしなかった。
いつも自分で言ってる「インプットしかしないんじゃ意味がねえ」がそのまま自分に返ってきました。ブーメラン。

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)

大きくどんな本を読んでいたかというと、相変わらず漫画が中心なんですが、活字は仏教系の本が中心だった。
だいたい活字は2〜3冊を並行して読むもので、結局淡々と進みすぎるし普通に内容が難しめの「応仁の乱」、分かりやすい読み心地で書いてくれる僧侶の小池龍之介さんの「しない生活」、そして今回読み終わった「悟らなくたって、いいじゃないか」の3冊。

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では本題の「悟らなくたって、いいじゃないか」の感想参ります。

こちらの本は「仏教思想のゼロポイント」でお馴染みの魚川祐司さんと、日本人でありながらタイで出家したプラユキ・ナラテボーさんの対談形式。
瞑想・坐禅のお話も結構出てくるけど、日本人が思い込んでいるそれらに対しての固定観念をしっかり壊してくれる良書でした。

瞑想することでさらに悩む人がいる

まずこれがこの本で分かる大きいところかなあと思う。
瞑想によって全て解決する、みたいなことを説く人はそれなりにいるだろうし、そう思って始める人も多いと思うけどそんなことないぞ、としっかり書いてます。

瞑想の方法もかなり多岐に渡っているので、つまりそれぞれが目指すものも異なる。
だから自分が目指している目的地に向かう方法をちゃんと選ばないと、一生懸命に瞑想しているのにさらに悩む……みたいな事態が発生するわけです。これは大事な話。
真面目な人ほど合わない瞑想なのに真面目に取り組み続けて、おかしくなっちゃったみたいなこともあるようで。

現代日本の社会の中で生きていくためのヒントとして瞑想を選んでいる場合、ゴリゴリの出家僧が目指すものとは意味合いが異なるのは分かるはず。
世俗と分断して悟りを目指すのではなく、世俗の中で生きなければならない中でどう精神面を開発するのかが大多数の人にとっての目的なので、そこは測り違えないようにしないといけないぜという。

あと「瞑想すると上手くいくのではなくて、瞑想すると上手くいかなくても気にならなくなるのだ」の一節が非常に強力なワード。


己の欲望を律することが「自由」

この本読むまでは感覚的には分かってたけどはっきりしたことがあって、「欲望に従うことは自由ではないんだなあ」ということ。
欲望を己の意志や理性でコントロールすることが自由。

「ああ、腹減った。ラーメン食いてえ」を「ああ、今私の本能が空腹を訴えラーメンを食べたがっている。ストップや!」こそ自由。
仏教の場合本能に従うのではなく、そこで「食べる」と「食べない」から戒律に従って主体的に「食べない」を選択することが自由。

どうしても「やりたいことをやる」のが自由っぽく感じるけど、そうじゃない。
選択する能力とか、自分の欲望を客観的に認知する能力を養うのも瞑想さんの効果かなあ。


全体の感想

しっかりした瞑想やマインドフルネスの本ばかり当たっていると、意外と独善的な文脈で書かれていたものが多いことに気がつくことが出来る本。
また瞑想に対してなんとなく持っている万能感は取っ払える。同時にそこまで構えて始めなくてもいいんだなあと思える。

読んでると結構魚川さんとプラユキさんとで意見対立する部分もあって、文章でも若干ピリッとする場面があったりして興味深い……けど、そこからちゃんとお話が先に進むあたりは説明できないジワジワ感があります。

全体としては入門書というより、興味を持ってから少し詳しくなってきたくらいに読むといい刺激になると思います。

改めて思ったけど仏教ってやっぱり宗教とは思えないんですね。これ心理学とかに近い。心理科学みたいな感じ。
メタ認知力を鍛えるのにはかなり有効な手段だと思います、瞑想。
……ところで瞑想と坐禅って違うよね?そう考えて生きてきたけど、結構同じものとして書かれるものも多いから迷いが生まれてきてます。