心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「見られている」という意識はポジティヴに活用しなけりゃネガティヴィティ(当たり前)

「大人になっても勉強する」のはみっともないのか? - 「げ」の一歩 改

先日こういう記事を書いたのだけれど、これについてもう少し拡大した話をしてみる。


私が読む限り

「いい歳こいて勉強するなんてのは、周囲から見てダセェ、みっともないからそんなことはやめい。体系的に興味のある分野を学び直すというのが、大人の学習だ」

だと思う(もはや私ももとの雑誌を取り寄せてちゃんと読もうかなCOURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2014年 02月号 [雑誌])のだが、このスタンスこそ一番みっともないしダセェっていう話ではないかと、それがしは考えざるを得ませぬ。
そもそも勉強と体系的な学習を分けて考える意味も良く分からないんだけど。



「誰」を対象にみっともないのか


私個人の話としてだが、常に「自分に対して」みっともない人間ではありたくないわけである。
自分で自分に対してみっともないのはどういうことかって考えると
「自分の未熟さ、無知に直面した時、周囲からみっともないと思われるのが嫌だから勉強しない」
である。これが自分に対して一番みっともない。


上に挙げた雑誌において芦田氏の言う「みっともない」の断定者は自己ではなく他者であって、「勉強している姿を見られるのがみっともない」ってんなら家で隠れて勉強すりゃなんにも問題ないよね、みたいなイージーな結論に着地してしまう。
こんなに簡単に解決するんだから、周囲からみっともないと思われるのが嫌なら家で勉強しましょうよ。


ネガティヴな起点である他者からの「みっともない」自体がみっともない


人から「アイツ、みっともねぇー」と思われたくない→勉強なんてするな

という、私が読む限りではなかなかに飛躍した論理構造なのだが、それで勉強しなかった結果ある時「アイツ、全然モノを知らねえなー」と思われても結局みっともないんじゃないの?っていう話。

「〜されたくない」といった形の、自分起点ではないモチベーションというのは基本的にネガティヴなスタートに立ちやすい。
「嫌われたくない」とか「離れたくない」とか(これを理解した上で好かれたい、一緒にいたいなんかに転化していただくとよろしいと思う)ね。


対して自己が始点である場合、ポジティヴな進行を行いやすい(私はね)。
「もっと知りたい」なんてのは勉強最大のモチベーションであるわけで、これは他者からのリアクションとは無関係に維持される原動力であるから強靭だし。

ちなみに「〜したくない」についてもなかなかに厄介ではあるが、これも上手く飼い慣らすと非常に強いポジティヴィティを発揮する。
「仕事で疲れたくない」→楽な方法を考えるようになる、とかね。


「他者」ではなく「自分自身」にたいしてみっともない真似はするな


他者の目線なんていくらでも隠せるけれど、自分の目線は死ぬまで、いや死んでも隠せないんじゃなかろうか。
「自分」のことは、常に唯一「自分」だけが見続けているのだから。


自分が「今の自分みっともねぇ」と思ったら試合終了だと思うのよね。
だから遠慮なく勉強して、自分のステータス上げた方がいいんじゃないですかね、ええ。