心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「孤独の価値」を知ればいい

今度は東北大で包丁騒ぎ、旧帝大が荒れている - 法廷日記

こちらのエントリーを読ませていただきまして考えたこととか思ったこととかを徒然草


TwitterなりFacebookなり、そういったSNSがもたらしたものっていうのは孤独化の強化というよりも人間関係の質的変換だと思っている。

「直接会わなくても常に交流できる」っていうツールであって、おかげさんで相対的に「他者のリア充っぷり」を見てしまう側面というのはあるかもしれない。


でも、待って欲しいんですよね。
何故おみゃーさん達は自分にとっての「リア充の定義」を周囲と同じだと思ってるんだ?そこのところを問いたい。


孤独=非リア充ってのは間違ってるでしょう。

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早速なんですがこちらの文献なりドラマをご覧いただきたい。


孤独のグルメ (扶桑社文庫)

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孤独のグルメ Blu-ray BOX

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端的に言うと中年のオッサンが独りで町の飯屋にふらっと入って、ご飯を食べるだけの作品。

いわゆる一般的なリア充とは真逆の位置付けだと思うのだが、その内容たるやそこいらのリア充よりよっぽどリア充である。


若い時分ってのは(わたしもまだ若い方だけど)他者との繋がりこそがいわゆるリア充だと勘違いしているのかなーと思っていて、それは満たされるというよりはむしろ恐怖あたりに近い感情の裏返しだと思う。早い話が人間関係が希薄になることにビビってるんじゃねーかと。


多分価値観のエリアが狭いのと、まだまだ物事を知らないことが原因でしょう。だから明確に自分の存在理由を規定できる人間関係の強固さの構築にすがる。Twitterとかでやたら相互フォロー要求したりする人にもそんな面が感じられます。もはや数値が増えるだけでもいいんだよね、おそらく。

でもそうやって作られたペラいリンクなんて、ぶっちゃけ意味がない。



そもそも「自分」ってものは存在しないわけで(最近読んでる仏教書の受け売りですけど)、これを受け入れるのが結構辛いけど自我の否定をしてしまうと存外楽になるのは確かである。


「他者との関係」に意識を向けてる限りは逆説的に自分可愛がりのエゴであって、タイトルにも挙げた孤独の価値を知るにはそういうステージから抜け出る必要がありそうだ。

そこで始めて純粋な意味で景色が綺麗だとか、飯が美味いだとかを楽しむ場所に至るのではなかろうか。
そしてそういうステージに立てば、当然同じステージの人々と知り合うことになる。この人間関係が本当のリア充じゃないっすかね、と。