心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

リーダーシップは人柄、人望とはイコールではないだろうって話を織田信長で考えてみる

リーダーシップ。


人の上に立ち、その心を一つにまとめ、一つの目標に向かって皆を先導し引っ張っていく。
時に士気を高め、時に衝突を緩和しながら、部下よりも少し先の明確なヴィジョンを持って先に進んでいく者。


これ人柄の良さとか人望とは別のものだよな?
それらはリーダーシップを構成する一要素にはなり得ても、主にはならないと個人的には思うのである。

リーダーシップの旅  見えないものを見る (光文社新書)

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いくら人望があって人柄がよく、周囲に人が集まっているような人でも、そうして自然に集まった人たちを同じ向きに向けさせることができなきゃそれはリーダーシップではない。「いい人」なだけだ。


リーダーシップで思い出すのは、私はやっぱり織田信長という人物であって、彼は一般的に言われているように人は遠慮なく殺すし、お世辞にも人から好かれるようなタイプではないと思われる。
それでも彼は、「織田家」というグループを日本の半分以上をわずか20年足らずで掌握するほどに成長させた当事者であり、終盤は部下のそれぞれがちょっとした大名クラスの力を持つまでになっていたわけだ。・・・最後は裏切りにあって死んでしまうが。


これをリーダーシップと呼ばないでなんと呼ぶのか。
恐怖によって部下たちは支配されていたとしても同じ向きを向いていたことは確かであるし(そうでなければこんなに短期間に織田の支配が拡大することは考えられない)、織田信長本人の才覚という裏付けは一種の「データ」として信用に足るものだったのだろう。


一方で信長という人物は町民などからすごく慕われていたりした。
それは有名な楽市楽座(織田の城下町で商売するときには税金がかからないし、許可を得ないで勝手に商売初めていいよ~的なもの)だったり、バンバン人を殺すっていうのもあくまで悪いことをした人であり、権力などに左右されない平等・公平な裁きはむしろ地位の弱い一般人にはプラスとして受け取られていたようだ。


こういった使い分けが信長という人物はできていたということであり、そして同時に使い分けではなくてどちらにもただ平等に利害をもとにして行動していたということもできる。嗚呼アンビバレンス。
「お人よし」であることで人望を集めようとせずに、裏表のない自身の確固たる天秤の上においてのみ物事をはかる。だから力のない町民には歓迎され、力によって優遇されるはずだった武士階級(それは織田家の者も含めて)や当時武装して人々から金を巻き上げていた僧侶たちからは反発を食らう。
私が織田信長という人物のことが好きなのは、自分の経験しか信用せず権力などには決してなびかない強い意志があるからだ。実際足利将軍を追放したりしてるし、きっと最終目標は天皇制度も壊して事実上の新しい政治体制を自ら作ることだったと思う。



何が言いたいかというと人の感情なんていういつでも変化してしまうものによって人を集めず、金銭という利害や結果を出せばきっちり報酬が出るという結果によって人を集めていたのが織田信長という人間だろう。
現実的な話をすれば金のほうが信頼できますからねそりゃ。

ただ信長の場合はそれを重視しすぎて、たとえば「信仰」や「人の想い」を軽視しすぎたのも確かだと思う。
それが裏切られまくった原因でもあるのかな、なんて夢想するのだ、私は。



そんな反省も込めて自分なりに「リーダーシップとはなにか」を考えるに。
「人は感情や一時の心情を時に大切に生きるものだということを理解したうえで、半ばそれを利用するくらいの狡猾さをも秘めたまま、あくまで自分は心を揺らさずに情報、数字によって人を導く者」がリーダーの器ではないかと。


長いな。