心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

現実と乖離しすぎた解決論には意味があるのでしょうか

まあ、なんだ。個人的には「それ被害者遺族の前で言えますか?」くらいの感覚ではある。とりあえず自分及び自分の身内や関係者が巻き込まれていないから書ける文章って気がしたけどな。
あとアレか、どこかで性善説めいてるのかも。僕は性悪説を取るので、その辺で理解はするが納得はしてないですね。

この意見、綺麗なお話だとは思いますよ。実際twitterではトレンドに筆者の名前も入り「こういう視点から考えないと根本的な解決ができない」だとか「本当の意味での解決はこの方角だ」系のスタンスで同意している人はそれなりにいるようです。

ただ綺麗事すぎてなあ。リンク先で書いてあるメッセージを社会が発信したとして、受け取る側がそれを解釈できるのかの問題もあるし、結局精神論というかね。なんというか理論値というか。

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今のところ犯人の素性もよく分かっていない段階で「社会への怨恨」とかがある前提で書いているのもちょっと違和感はあるんだけどな。


その視点で本気で考えるならメッセージよりも、社会として雇用とか税金とか、実際に社会に必要とされる機会を充実させたり生活しての苦しさを軽減するとかってのが問題解決ではねーかなと。
で、これには長い長い時間がかかるのでその間をどうするのか。これも並行して考えないといけません。今回の事件のパターンでは監視カメラなどは効果がないだろうから、繁華街には警察官が立っているとか……難しいところだなあ。


……ちょっと反論されそうなことも書いていいですかね。
そもそも「追い詰められて自分の命を絶つことを考える」までは人間である以上少なからずあると思うんだけど、そこから「自分以外の人の命を無差別に奪ってから自分も絶つ」を選択する時点でイレギュラーじゃないですかね。自分で置き換えても、そもそもそんなこと考えもしないと思うんだよな……。
これ社会のメッセージとか、それで止められるものなの?今回の犯人の心理・精神構造自体が根本的に異なっていた可能性ってないのかな。