ちょっと過激なこと言いますが「死にたい」って言うの、そんなに悪いことなんですかね。
先日こんなネットニュースがありましたが、まあここで書かれていることとは少し論点を変えて一筆。
「死のうと思うこと」は正直少なからずあることだと思うんだけど、それを言っちゃいけないってのは少し酷だなあとも思うんですな。
……死にたいと思うこと、皆さんは全くないのかしら。そうなると根本的に僕がイレギュラーってことになってしまいますが。
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死にたいって気持ちを抱えているのに、それを「言ってはいけない、言ってはいけない」と抑圧し続けるとどうなるかって考えた時に、いつかぶち壊れて本当に死に至ってしまうんじゃねえかなと思ってしまうんですよ。
だったら死にたいと思った時には時々「死にてえな」とか言っちゃった方が、返って生が楽になるような気もいたします。人に相談してみると、そうやって言葉に出してみるだけでも楽になるっていうやつはここにも当てはまるんじゃねえかなと。
「生死は……コインの表と裏みたいな……そういう正反対の変化じゃねぇ……!
俺からすると 本質的に同じことっていうか……
同じ泥中の 濃いところと薄いところっていうか……
この水割りの濃度の問題と 大して変わらない……!」
天のラストはアルツハイマーを患った赤木しげるが自死を決断、その直前にかつて麻雀で闘った仲間やライバルたちと語り合うってものなんだけど、その時に出てくるのがこの赤木しげるの死生観。
「死」というものに対して極端に嫌悪感とか、いけないことだとかいう意識を持ち過ぎていることが、返って死を近付けているようなイメージがある。
そんな特別なことじゃない、生き物なんていつ何があってあっけなく命を落とすか分かったもんじゃない、少なくとも気持ちはそういうつもりで生きてます。
仏教なんかじゃ生老病死の四苦で、生まれることが既に苦しみ。生まれちゃうと老いたり、病気になったり、死ぬことがまた自動で背負う苦しみ。
生も死も同じように苦しみにカテゴリーされてるわけで、なんとなく赤木しげるの「生と死は本質的に同じこと」という言葉が想起される。
「生老病死」ってそのままそっくり「生きること」って言い換えられるようなレベルだし、やっぱり生きることは前提としてめちゃめちゃ難易度高くて、キツイことなんだと思う。
ただ重要なのは「死にたい自分」に飲まれないことで、その自分とは距離を取る感覚は必須でしょう。
それが出来る上での死を希求する思いの観測です。
……こういうこと言ったり書いてると、確実に一定数の「自殺を助長するな!」系の意見がぶっ飛んできますよね。
この文章で伝えたいことは何かっつーと、死にたいという気持ちを否定せず「そういう気持ちもあるよね」と素直に受け入れることで、むしろ生の重要性とかに転化させられるのではないかということを考えて書きました。
言葉にならない部分もかなり多いブラックボックスのようなものだからなあ。
死にたいってことは、そのまま生きたいってことでもあるし。
本当にいろんな悩みを抱えていて苦しいっていう人にはそのまま当てはまらないかもしれないけど、なんとなく生きる理由が見えなくて、緩やかに生きていながら霧がかかったような人生……みたいな人には少し考えてみて欲しいかもしれない。
自死欲求はうまく手綱を握ってやれば、生きる力に活用できるような気がする。
その辺はもう「天〜天和通りの快男児〜」を読んでくださいっていう……マンガ本のマーケティング。