心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

清水富美加と織田信長

清水富美加さんが出家してからちょっと時間が経ちました。

ちょっと思ったのが織田信長
織田信長がやったことの1つに「政教分離」がありまして、比叡山焼き討ちあたりはそう言った意味合いも強い行動でした。「お坊さんが軍事力持って、関所で金巻き上げて政治的パワーを持つなよ」が理由だったので、そういうパワーなしでただ布教したいというキリスト教は迫害しなかったわけですな。

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んで少し推察してみるに、もしも事務所側が「まあ幸福の科学を信仰するのは別に構わないし、その教義的にNGな仕事は言ってくれれば対応するからこれからもよろしくね」というスタンスであれば、ここまでこじれなかったのではないか?と思うのです。

親が信仰している家で生まれ育った人間にとって、それを否定されるのは全人生の否定とイコールで結び付くわけで、それをやめなさいと言われたら……。
なんとなくそういう感覚が日本人には抜け落ちている印象があって、そのあたりが良くも悪くも織田信長が宗教に対してとったスタンスが影響しているんじゃないかなあと思います。


信長の「軍事介入とかしてこない限りは、好きに信仰していいぜ」という宗教観……というより宗教に対する立場。根本的に日本神話が多神教であるような世界の上に、この信長の政策が決定づけたと僕は考えています。10年も戦い続けた石山本願寺も、戦争が終わったら信仰自体は許すあたりが信長の意志を思わせる。比叡山もそうだけど、酷めに焼き討ちして軍事力は奪っても宗教そのものを抹殺してはいません。
秀吉と家康は……なんだろう?「将来力を持ってクーデターめいたことされる前に抑える」だったのかな?まあ秀吉に関してはキリスト教は止めたいけどお金が欲しいってんで、外交は一部オープンにしていたから止めきれなかったけど。


ともかくそんな信長の流れが今の日本まで繋がっていて、年末はクリスマスを楽しんだら一週間後には初詣で神社に行く。宗教ではなく好みで結婚式のスタイルをウェディングドレスか白無垢かを選べたりする世界。あと決定的なのはゲーム「女神転生」シリーズが当たり前のように発売できる風土とか。


様々な思想に寛容である一方、実際に信仰している人に対しての理解が出来ずに軽く考えすぎてしまうのは一長一短と言えそうです。
海外に行く時に宗教の欄を「無信仰」にするとなかなか問題になるとか聞きますからね。世界基準で言うと、やっぱり日本は極めて特殊なんだと思います。


……まあ、今回に関してはその信仰対象が何かということに関しては考えないでおきます。あくまでも「何かの宗教を信仰している人に対して」という広いことに関して考えたことということで。
僕も海外に行く日があれば、仏教徒ということになるのだろうかねえ。
仏教って信じるものというより、体験や経験から理解するもの、という感覚だけど。