んじゃーそろそろ辛めの感想書きますか。
「爻ノ篇」の蓋を開けてみると、ほとんど会話での世界観の説明合戦の様相を呈していたわけで、ぶっちゃけ「結を3部作にすることは出来なかったのかよ」と思ったんですよね、観終わった瞬間。2部作の後編の段階で世界観の説明ってどう考えても遅すぎる。
そもそも「結」に入ってからパラレルワールドだとかソロモンの鍵だとかシンプルプランの正体明かしだとか、SPECという作品群全体を通してじっくり明かして行くべきだったような設定がまるで突然思い付いたように詰め込まれて、「その説明をしないと観てる側がポカーンだから一気に説明させて、ゴリ押しで決着つけて終了!」と言われても仕方がないと思うわけだ。
もっとファンのことは待たせてもいいから、大切に、丁寧に描いて欲しかったというのが正直なところである。
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色んな漫画やゲームに触れてきた自分からすると、「SPEC」と同じような話ってのはいくらでもあって、それをリアリティのある現代日本という舞台に溶け込ませていたから面白かったわけだ。そうじゃないならマンガ読んでたほうが面白いもの。
そして、荒木飛呂彦の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の影響を受けていることは監督自身認めているものの「爻ノ篇」のエンディングって、ほとんど第6部「ストーンオーシャン」の簡易版といった風情だったのが残念極まりない。
終わり方はもはや簡略化したジョジョ第6部「ストーンオーシャン」の最終話。
ジョジョの場合パラレルワールドを作るのは敵のほうで、その敵が作るパラレルワールドを阻止しようと主人公たちは戦う。
物語のテーマとあわさってこの構造はすごく意味があって、パラレルワールドとは一種の「辛い現実からの逃避」というニュアンスもある。
主人公は無実の罪を着せられて懲役15年を食らった10代の女の子で、さらに父親は彼女を守るために身代わりになり意識不明の重体に追い込まれてしまう。そんな境遇でありながら刑務所内での戦いの中精神的にどんどんと強くなり、挙句脱獄をかまし、自分に罪を着せたボーイフレンドさえ許し(さらに利用し)、本当の敵を追い続けるわけだ。
こんな戦いの果てに勝利しても自分は脱獄した囚人であり、世界に居場所はほとんどないと言っていい。
それでも自分の今いる世界を守ろうとした。数少ない仲間や、父親が守ろうとした世界を。逃げるのではなく、運命を受け入れ、立ち向かい、乗り越えようとする強い意志。
それが「ジョジョ」の素晴らしいところなのだ。
結局主人公は敗れ世界はパラレルワールドに到達するのだが、主人公たちが命懸けで守った少年が新しい世界でみんなの遺志を継ぎ、見事敵を倒す。
そうして再び元に戻ろうとして作り直された世界には、死者は到達できないのでこの少年の仲間たちはみんな存在しないのだが、よく似た人たちに出会い、涙があふれ出す少年……。
この辺は言葉で説明が難しいのだが、本当にねえ、ジョジョの第6部は泣きますよ。
「SPEC」との比較としては「主人公が命をかけて世界を救った」というところは共通なんだけど、「今の世界」に対しての感覚は真逆だったわけだ。
「今いるこの世界」はただ一つであって、それを「はい、先人類ごと私が消えることで新しい世界に作り替えます」という話では、なんというか「今いるこの世界」とはなんだったのか?と。
パラレルワールドという設定があるからこそ一つ一つの世界、「今いる世界を壊すことへの葛藤」みたいなものを描いて欲しかったし、結を3部作にするのならそういう内面の悩みと覚悟、決意を真ん中の中編に挟めば良かったように思う。
「爻ノ篇」に至り、突如「使えますよ、SPEC」と言い放ち一気に決戦ステージに突入したわけだが、何をどうやっても説明が不足しているわけで。
観たかったのはアクションだとかCGではなくて、人間ドラマだったのです、私は。
だからドラマで瀬文が津田に勧誘された時に葛藤しながらもアグレッサーに入ったりするシーンに「うおお」って思ったりしたのだ。
「漸ノ篇」終了⇒
当麻「殺す・・・殺す・・・」発言からの負のSPEC、内面との決着。
当麻、卑弥呼と接触。世界を救う方法を聞く。
すなわちこの世界を滅ぼすということとの葛藤。
SPECホルダーたちとの対話。
瀬文との対話。
当麻、覚悟を決める
⇒「爻ノ篇」スタート
くらいでもよかったんじゃないの?っていう。
世界観の説明不足とともに、登場人物の内面描写がなさ過ぎて付いていけなかったというのが素直な感想。
ここまで丁寧に積み重ねてきた「SPEC」という作品群をアレでおしまいって言われると、ちょっとなあ・・って思いますよ。
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