心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

言語化されていない信仰は存在すると思う

よく「日本人は無宗教」なんて言説は聞きますが、具体的に「私は仏教徒です」みたいなことはないってだけで、感覚的には結構な人が淡い信仰を抱いて生きてるんだろうなあって話をひとつ。

先日、靖国神社に落書きをした中国人の男性が現れました。
あの事件を知った際、多くの人はその感情の大きさに差はあれど嫌な気持ちになったはずです。

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「やったのが中国籍である」という部分を一回差し引いてイメージしてみて欲しいんですが、そうやって国際問題・政治問題的な意図がないとしても今回の一件には多くの人が不快感を持つはず。

神社やお寺に落書きがされたってだけでそれなりの人が不快感を覚えると思うんですね。
それらに対して全く何の感情もなければ、そこに特別な不快感はないはず。例えば公衆トイレの落書きなどと同列の感覚だと思います。……まあ公衆トイレであれ、落書きはするなよとは思いますが。

「バチが当たる」みたいなやつ、なんとなくでも信じているからこそマナーを守るわけです。
そのような科学的な理由もないことを守ろうとすること、これを信仰と呼ばずして……と自分は思うのですね。


日本の場合、原初にはすべてのものに神が宿るというアニミズム的な信仰の土台があります。日本神道では八百万の神なんて言いますし、神様がいっぱい。
ただし、この日本神道を信仰していなくても日本人のベースにはアニミズム的な感覚があると思います。これはキリスト教とか仏教とかより根源的なレベルだと思っていて、具体的にいうと「もったいない」という感覚などはその典型例かなと。

これが今回書きたかった「言語化されていない信仰」で、Instagram用に写真だけ撮って、注文した食事を食べないで出ていく若者なんかの話でも不快感を感じたりするわけでして。
作ってくれた人に失礼だろ!みたいな観点もありますが、作られた食事自体にも失礼だろ!的な感覚があります。そこに何かしら特別性を見出しているからでしょう。神……とは言わないまでも、食事そのものにも多少特別な感覚を持っているんですよね。


なんだかオチが付かなくなってきましたが、まあそんな感じ。
日本人として長いこと生きていると、やはり文化や歴史、日本語の中にある単語の数々から、自然とアニミズム的な感覚が自然と身につくんじゃないかなと思っています。強いて言えばこれが「日本ならではの信仰」のようなものかなと思います。