心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「必要とされること」に喜びも充足感もない

ずっとダークソウル2の記事ばっかり書いてたんで、クッションも兼ねて自分の話with自分の哲学のお話を少々。
まあタイトル通りなんですけどね。


周囲から全く必要とされないのもなかなかに辛いものだが、私の場合はあまりに必要とされすぎた場合、そっちの方が辛いのである。

「必要とされてる自分。存在価値がある。評価されてる。生きがい」みたいな人のほうが多いと思うのだが、私はその周囲から必要とされることに自分の存在価値を見出すこともしないし、それどころか「人をヨイショして上手く利用する努力の前にやる事あるだろ?」くらいに見てしまう程度には歪んでいる。



「周囲から必要とされること」によってアイデンティティを保っている場合、自分の中身がペラいってことの自己証明なのではないかと思うのだ。

「仕事が速い」とか「力持ち」とかそういうの。人と比べた場合の相対性優位であって、さらに自分より上の人が現れたら簡単に消滅する。
言ってしまえばそれが「人から必要とされること」におけるファクターなのだから、「人から必要とされなくなる」のもあっけないものだ。

そしてそれを拠り所にしていると、たやすく壊れてしまう。





持たないといけないのは周囲がどうだろうと関係のない絶対的な始点から始まるアイデンティティであって、それは何かっていうと「自分」しかないじゃないですか。

「自分」が「自分」を必要としているのか。

個人的には、この一点に全てがかかってる。


たとえ明日急に職を失い、周囲からの必要性も関心もロストしても、自分だけは常に離れようもなく自分を見ている。
その自分に評価されて必要とされていれば、それでいいではないかっていうのが言いたかった。

……全然関係ないけど、結婚できる気がしない。




私の場合は逆に過度に必要とされすぎていると、「周囲の人間は私の何を見ているのだろう?」という妙なモヤモヤが生まれる。
「このメンバーの中では仕事が速い」とか「経験の長さ的に信頼できる」とか、そういうのが見られているわけで、なんつーか「私である」ということが欠落している感覚。
まあ仕事の話なりなんなりってステージだから仕方がないのだが、それでも度を過ぎた場合、私は「いやいや俺は便利な機械ではないのよ」なんて気持ちになるのである。


私を私として規定しているものを言語化するのはちょっと不可能に近いのだけれど、でも間違いなくそれはあって、それに誇りを持っているし、私のアイデンティティはそれに起因している。
だから必要とされすぎたりすると、それをないがしろにされているように思えて嫌なのだ。ほどほどにして下さい。



私が人の評価なんてあまり気にしないことの原因はこれだろうな、と思う。
常に自分が自分を評価してるし、自分は自分に必要とされ続けているのでね。


そして、結局そういう絶対性から想起するアイデンティティを持っている人のほうが、「本当の意味で」必要とされるようになっていくと思う。


会社にも社会にも必要とされる人の10のルール

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私には必要とされない本。