私には一般に言う「根性」がない。
反復練習みたいなやつとか、長距離走とか、はたまた内職のような単純作業まで、とにかく長続きしないのだ。
自身の意志でやる場合はいい。
ただ、人から命令されたルーチン、特にそのルーチンに意味を見出せない場合、やる気なんて少しも出ず、速攻やめてしまう。
「やりたくないことを我慢して継続すること」が根性だと言うのなら、私は筋金入りの根性なしだと言えよう。
いやー、正直ガキのころはその根性のなさで親を含む周囲からけなされ続けてきたわけなのだが、今では
オレ、根性なくてよかったわー
と、割とマジで思っている。
日本人は何故か知らないが、やたらと根性を美化しがちだ。
スポーツ選手が世界大会で優勝でもしようものなら「毎日の血のにじむような努力が実を結んだ」だとか。
違うって。絶対違う。
「たゆまぬ努力をした」結果じゃないんだって。
「どういう努力をすれば結果が出るかを考えて実行した」結果なんだって。
野球選手が毎日プールで水泳というたゆまぬ努力をし続けたところで、スタミナは付くだろうが本質的に野球は上手くならない。
だから「毎日どれだけの練習をしているんですか?」みたいなことを尋ねるやつは努力信仰に飲み込まれているのがまるわかりな訳で、「ほかの人とは一線を画す、特別なトレーニングはありますか?」とか「どのようなことをイメージして練習に臨んでいるのでしょうか?」のほうが意味を持つと思うのだ。
なまじ根性があり、そしてそのことを誇るような人間はしばしば自身の行っていることの方角が誤っていることに気が付かない。
「コーチがこの練習をしろと言ったから歯を食いしばって耐えています」なにがカッコいいのか。まるで自分の頭を使っていないじゃないか。
極論すれば、根性を先に持ってくると思考が停止する。身体は辛いが頭は楽なのだ。
根性なしであるが故に時々立ち止まり「あれ?この練習辛いだけなんだけど、ほんとに意味あるのかね」なんてことに頭を巡らせたりできる。
それでも「うるせえ黙ってやれ」がいまだまかり通るのが運動部の伝統であり、そしていまだにそれがどこか美しいものとして語られている。正直気持ち悪い。
あくまで頭が先行するようでなければ、たとえスポーツの世界でもトップレベルに立つことは不可能であろう。
「何をすればいいか」を考えた上で、「なすべきこと」に根性を割く。
私という人間に与えられた根性というリソースは恐ろしく少ない。
だからこそその根性の「使いどころ」を、根性なしであるが故に身に付いた思考で見極めていこうとして生きている。