おもむろに思いついたんで初めてみたいこの企画。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に代表される戦国時代。
真田幸村がやたら持ち上げられたり、今年の大河では黒田官兵衛が取り上げられ大活躍。
そんな一般的に目立ってるやつらの陰に、実は地味にすげー武将が沢山いたんだよ!!
そういうことを少しでも知ってもらいたいと思って始めてみようと思います。
第一回目は毛利勝永。知ってますか?毛利勝永。
幸村大活躍で騒がれる大阪の陣ですが、実際に一番キテたのは毛利勝永だとわたしは思っています。
スポンサーリンク
結構波乱万丈
1577年生まれの勝永。戦国時代では相当遅咲きと言えましょう。彼が5歳の時には信長が死ぬと考えると多少分かってもらえるかと思います。
ちなみに幸村が1567年。伊達政宗も1567年。「生まれるのが遅すぎた」と形容される伊達政宗よりさらに10年遅咲きでした。
父と共に秀吉に仕え、朝鮮出兵にも参陣。順調に武功を重ねていきますが、そんな中で秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが勃発。
彼はその前哨戦である伏見城の戦いにて大活躍するものの、肝心の関ヶ原では彼の着いた西軍が敗れてしまったために改易と相成りました。
改易となった彼は山内一豊に預けられ、もともと旧知の仲でもあった山内家の計らいで手厚く迎えられたといいます。
このへんは不遇の時代を生きた幸村に比べるとだいぶリッチな生活だったのかも。
順風満帆風ではあるけど西軍について負けてたり。でもその後も意外にいい暮らし。
……あれ?あんまり波乱万丈でもなかったか。
勝永、起つ
1614年。
秀頼から力を貸してくれ、という連絡を受けた彼は「家康側についている山内忠義様にぜひ協力したい」とウソをついて長男を引き連れ脱出、大阪城に入った。
冬の陣では幸村とともに出撃して戦う策を提案したが却下され、籠城しつつ警備。
冬の陣が終わると大阪城の堀は埋められ、運命の日は迫ります。
ちなみにこの時点でも大阪城に入った諸将からの信頼は厚く、後藤基次(後藤又兵衛)・真田信繁(真田幸村)・毛利勝永・長宗我部盛親・明石全登という大阪城五人衆の一人です。
勝永無双
ついに開戦した大阪夏の陣。
5月6日の道明寺の戦いでは濃霧に阻まれて敗北してしまうが、そこからが凄い。
「濃霧に邪魔されて又兵衛を救えなかった・・・もう死にたい・・・」と言っているヘタレ幸村にたいして
「ここで死んでも意味ないぞバカたれが!!」
と一喝。
さらに後藤又兵衛軍の敗残兵を回収し、殿を務め他の軍を順次退却させ、自身も無事に退却成功。
そして翌日の大阪城最後の戦いの無双っぷりも半端じゃない。
4000人の兵を引き連れ家康の正面に布陣。
合戦が始まると本多忠朝、小笠原秀政の軍を瞬殺。
さらに浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純の軍を撃破しながら突き進み、ついには徳川家康本陣に突入を決めた。アメフトなら驚異のタッチダウンである。
しかし真田幸村の軍が壊滅すると同時に、自身も四方からの攻撃を受けたので退却を開始。
カウンター攻撃を仕掛けてきた藤堂高虎部隊を逆に倒してしまい、さらには井伊直孝・細川忠興の猛攻を防ぎながら大阪城まで帰ってきてしまったのである。
強っ。
幸村よりも「生への意志」を感じるところがアツい!
幸村の場合は後世に伝わるエピソードや真田丸の印象もあり、実際に大阪の陣でも毛利勝永と同じくらいの奮戦を見せているんですけど、どうにもこの退却の上手さとかを考えると幸村より勝永の方がカッコいいといいますか。
「命に代えても勝つ」みたいな姿勢は確かに美談ですし、華がある。ゲームやマンガでの真田幸村像はそうやって作られていったのかなと思います。
でもね、毛利勝永はちょっと違う。
「生きていなければできないことがある」
そんな姿勢が幸村を立ち直らせたエピソードや、自身の退却の巧みさに現れているように思うのです。
戦いの中に散るのも美しいですが、最後はちゃんと主君・豊臣秀頼の最期をお世話して、自身も潔く散る。
綺麗に始末をつけて終わらせたあたりは、真田幸村よりも評価されていいのではないかと思います。
統率:83
武勇:81
知略:75
政治:45
信長の野望・創造でのステータスを最後に乗せて。