心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

僕が旅に出る理由なんて特別ないけど旅に出た

http://crrt.hateblo.jp/entry/2014/06/03/050204

記事のタイトルに惹かれて読ませて頂いた記事なんですけど、まあ内容は全然旅の話ではありませんでした。ちょっと残念。

というわけで(?)、ちょいと自分の旅について徒然なるままに書いてみる。
数日前まで私は一人旅を謳歌していたわけで、京都、奈良、三重の三県を一週間くらいかけてぐるっと回ってきたわけで、「そういや旅に出ようとおもった理由はなんだったっけ?」と思ったら別に大した理由が出てこなかった。

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ぱっと思いつくのは「あ、ここ行きたいわー」みたいなものが発端で、「伊勢神宮行きたい」⇒「じゃあついでに熊野古道も歩いてみたい」⇒「結局京都経由するわけだから、奈良と京都も見よう」⇒「京都と言えば伏見稲荷大社があるじゃん(上の写真の鳥居がたくさんある神社です)」
みたいな感じでふんわり計画ができあがってきて、あとはそれなりにまとまった時間とお金があったから行ってきた、程度の理由だ。


しいて言えば私には「長い期間同じ環境で同じサイクルをしているだけでストレスが溜まっていく」という一種の精神疾患みたいなものがあって、それがたまると「あー誰も知り合いがいないところに一人で旅したい」と思うわけで、根源的にはそういう個人的な理由もあるだろう。

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正直な話、旅に出てみたからと言って何かが劇的に変わるという認識はまず得られない。だから万人共通の「旅に出る理由」なんてものは思いつかない。
まあ連日35度を超える中を歩き回ったおかげで日焼けが凄いんだけど。それは万人共通の変化と言えるかもしれない。


先に挙げた私特有の症状もあるので、旅は私にとって一種の逃避行動とも言えるのかもしれないのだが、それでも「テレビしか見たことのない場所を実際に歩く」とか「現地特有の食べ物を食べる」とか「聞こえてくる会話のイントネーションが違う」とか、それだけでも「周囲の世界が変わった」感触というのはリアルに訪れる。
でも月並みな表現だけど、「世界が変わった」のは「自分が旅に出た」からで、「世界を変えたければ自分が変われ」というのはつくづく言いえて妙だと思う。


今回の旅では伊勢神宮東大寺や、もうとにかく「手を合わせる」ことをたくさんしてきた。どんなに歩いて汗だくでも、とにかく「感謝の気持ちを込めて参拝する」ということだけは結構マジでやってきた。
全てに意味があるというなら、私が25年生きてきたこのタイミングで「祈りの旅」に至ったのは過去と未来との節目なのかもしれないと思うし、言ってみれば天照様が「丁度いい機会だから、あんた一回挨拶しに来なさいよ」とでも声をかけてくれたのかな?などとロマンティックなことも考える。



まあなんというか、「理由があるから旅に出る」なんてことはあんまりなくて、旅の最中や旅が終わった後に理由が分かるような、そんなものなんじゃないかと思うわけだ。

映画「LIFE!」もそんな感じがする作品だった。仕事に必要だから勢いで旅に出た主人公は、やがて仕事に関係なく旅に出るし。


そして旅は人を変えるんだけど、それは「変わった!」とはっきり分かるようなものではなくて「後々考えるとあの旅をきっかけにゆっくり変わってた」みたいな感じなのだ。
とりあえず漠然とした余裕ができてくるし、人間的に底が深くなるような。これって実感できるには時間かかる。


まあそんなわけで、理由なんてなくても旅に出てみたら?とは思うわけ。
「こういう効能があるよ」とははっきり言えないんだけど、自分を成長させてくれるし確実に世界を広げてくれる(広がるのは自分なんだけどね)。


ちょっとまとまらないですが、そんな感じです。
旅は一人で。現地の人と交流しながらってのがサイコーだ。