心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

良い晴れの日、良い雨の日

先週末には仙台も梅雨入り。雨が本格的に降り始め、気温もグッと下がる中、日曜日はコメダ珈琲店でモーニング。土曜日は長町のカフェでモーニングしていたので、実に優雅な土日ですな。

とりあえず折り畳み式のキーボードを購入してからいろんなカフェで何か書いて回っていますが、コメダはテーブルが少し低くて若干やりにくいですね。作業をするよりは読書するなり、純粋に喫茶休憩タイムのほうが使い勝手は良さげです。


「雨が降ると外出スケジュールに影響が出てテンションが下がる」というのは多くの人が経験していることでしょうし、実際に自分もそういう面は強いです。

ただ、最近改めて仏教系の書籍を読み直していく中でなかなかいい話がありました。
雨の日をネガティヴに捉えているのは、晴れた日との相対軸で考えるから。それぞれ独立して考えてみると、そこあるのはそれぞれ独立した「晴れの日」と「雨の日」でしかありません。比較するから悪く見えるのである、ということですね。

こうやってそれぞれ独立して思考するのは、瞑想や坐禅によって養われる感覚ともリンクしています。
いわゆるマインドフルネス瞑想や、その源流ともいえるヴィパッサナー瞑想では、ただ発生していることに感情・価値判断を交えず、ただ現象として認識していくことのトレーニングします。
「雨が降っていて嫌だなあ」ではなく、そこにあるのは「雨が降っている」という現象でしかないということを理解していく鍛錬です。

考え方としてこれが進むことで、良い/悪いの価値判断そのものがなくなっていきます。

『悟らなくたって、いいじゃないか』の中では、これを「+500や−500という数値があったときに、それを絶対値としてとりあえず500として捉える」と説明しています。
起きているのは「雨が降っている」という絶対値としての現象であり、ここに「買い物か面倒だ」とか「洗濯物が干せない」という価値判断を加えるから−になるわけです。
晴れなら晴れで、これは「晴れている」だけ。ここに「気分がいい」とか「散歩に行こう」という価値判断が加わって+になる。あるいは「暑い」という−になることもあるでしょう。どちらにしろただの現象である天候に対して、受け取る我々側の価値判断が加わることで問題が発生するということです。

絶対値として、ただの現象として世界を認識する。
実際にそのステージに立つには相当の鍛錬が必要になると思いますが、折りに触れてその考え方を思い出すだけでも結構変わります。
日々を連続として認識することをやめると、毎日が独立して見えてくる。
本来現象として捉えようとするアプローチなので純粋なゴールではないですが、昨日は「良い晴れの日」だし今日は「良い雨の日」です。昨日が晴れていたから雨の今日はバッドな日……ということにならないということ。それぞれ別の日なのだから、それぞれがただの良い一日でしかない。本当は良いも悪いもないんだけど、そこまでいくのは出家したガチの僧侶だけでいいと思います。俗世を生きる我々には、毎日が良い一日であることのほうがずっと価値のあることですから。
「日々是好日」というやつですね。

晴れなら晴れを「良い晴れの日」として楽しむ。
雨が降っていれば雨を「良い雨の日」として楽しむ。
そのような心意気が心穏やかに生きるヒントかもなあ、なんて。朝目が覚めて雨が降っていたら、すこし窓を開けて雨音を聞きながら目を閉じ、10分だけ瞑想をしてみる。それだけで「良い雨の日」として一日が始まったりします。

……冒頭に書いた「コメダのテーブルは高さが低くてキーボードが叩きにくいなあ」もまた価値判断だよな。そこにあるのは「低いテーブル」でしかないのだ。