数ヶ月読書を通してではあるけど仏教、特に原始仏教と禅の思想について学んでいる。それは当然私の中に、その考え方に共鳴する部分が多いからに他ならないわけだが、それでも色々なショックやダメージを受ける。
日常的に「感情で動くな」「理性で動け」的なことを言い続けていた自分でさえ、結局はまだまだ感情で動いていたのだなあと思い知らされる日々だ。
そして何よりそれは、わたしの今まで生きてきた全てを一旦否定することに違いなくて、そりゃ苦しいよねっていう。
生きることは楽しいとか思ってたけど仏教的には「生きる事なんて本質的に苦しい」し、生きることの意味を探して生きていたけど仏教的には「生きることに意味なんてない」し。
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「生きることは全て苦しみ」って考えると、今こうして仏教を学ぶことで苦しんでいることにすら説明がついてしまう。
そして「生きることの意味なんて存在しないのに探す」のだから苦しい。自分探しにも似ている気がする。
楽しいことはその反動、楽しいことがロストした時に苦しみを生むので否定する。
愛も同じ理由で否定される。まあキリスト教的な愛とはニュアンスは多少異なるのだが。
ともあれそうやって仏教はあらゆることを「苦しみの原因」としていく。
以前知り合いにそういう話をする流れになって「今、仏教を学んでいて……」ってな具合に苦しみの話をした。
返ってきた言葉は「なんか悲しいなー」だった。
思うに仏教って始まりは「絶望」からだったのだろう、と思う。
それを省みると昔「生きるって超楽しいぜ〜」って言ってた頃に比べて相当絶望を感じている今の自分にがっちりフィットしている感もある。
ただ「考えることの否定」というのがどうにも抜けきれない。むしろここが自分を否定することの最大要因とも言えるのだが。
わたしは今まで感情を否定し、思考で道を選択し進んできた(つもりだ)。
だが仏教では考えることも苦しみを生むから否定する。考えることは過去や未来といった現実には干渉不可能なことに思い悩まされることが多々あるから、どうしようもない苦しみを生む。
今、生んでいる。
坐禅はそれを攻略するための訓練であり、実際に禅を組んでいる時は少しだけ楽になるのだ。
続けなければならない。
少しずつ、自己否定の強さは弱まってきているのだから。
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