心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「やる気」をメインエネルギーにするのはリスキーすぎませんか

突然だがもしもわたしが人事担当者だったとしたら、まずやる気にみなぎっているような人間は警戒して取らない。

それはわたしが「やる気」なんていうエネルギーを基本的に信用していないからであり、いかにも「やる気あります!!」というような人間ほどそのやる気を何処かで削がれると途端に弱くなるのを幾度か見てきたからだ。
というか、以前のわたしがそうだった。
むしろやる気なさそうな奴の方が個人的にはいいのだ。そういう「やる気みなぎってる感」みたいな、表面的なものはもう信用していない。

そういうエネルギーで動いている人間は、結局その「やる気」が低下した時に大抵ダメになるからだ。

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だったら初めからやる気や根性などではなく、システムで動ける人間のほうがいいと思うのである。
究極やる気なんてなくてもいいんじゃないの?って。
辛辣なこと言ってしまえば、やる気というエネルギーに頼らないといけない程度なんじゃないの?って。


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どう考えてみてもわたしがここまでブログを継続していられるのは「やる気」によるエネルギーではなくて、というかぶっちゃけるとやる気がなくても更新できるくらいじゃないとあっさり止めてしまうようなものだと思うのである、「ブログ」というものは。
以前も書いた通りキーワードは「習慣化」「システム化」であって、ある種感情的な影響を排除するようなところにまでもっていくことが最重要だと考えている。


五月病」なんてわかりやすい例だと思う。
たとえば新入社員は気合十分、やる気たっぷりで入ってくるだろう。
そして一か月、そのやる気を燃やしながら新しい世界に揉まれ、怒られたりしながらその「やる気」というエネルギーは減っていくばかり。
尽きたころに残るのは仕事に対するネガティヴな「感情」。それはやる気が詰まっていた部分に代わりに溜まっていくような感覚だ。



「やる気」そのものは状況によっては有用だとは思う。
ただそれが機能するのは、瞬間的なもの、「この一点だけ」というときの爆発的エネルギーであって、仕事や趣味、ブログのような継続的にエネルギーを求められるようなことに対してに使うには不安定すぎるエネルギーだと言わざるをえない。


「やる気なんてなくても実行できる計画を立てろ」
は至言だと思う。