今日は参議院議員選挙で「べらぼう」がお休みなので、田沼意次についてちょっと調べてみました。
前回の大河「べらぼう」ラストで佐野政言に斬られた田沼意知。
これを受けて、庶民の間では「佐野大明神」などと呼び、むしろ田沼を斬った佐野政言を称賛する風潮が出来上がることになります。
そしてこの事件をきっかけとして、父である田沼意次の権威も失墜。数年後に彼は失脚することになります。
自分の学生時代の知識レベルでは、田沼意次は商業を推進して経済を立て直した……つまり庶民からも、それまでの吉宗が行った緊縮財政を停止したことで評判は良かったんじゃないかと思っていただけに、今回Wikipedia中心にネットで調べてみた程度ですが結構衝撃でした。当時教科書で学んだ田沼意次と全然違いますね。
実際には田沼政治、吉宗の享保の改革の流れを引き継いだ緊縮路線だったらしく、相変わらず庶民の暮らしは厳しいままだったようなのです。
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結局のところ田沼意次が実行したのは赤字続きの幕府財政の立て直しであって、そのために庶民は引き続き苦しい生活だった……というのが田沼政治の実態。
とはいえ田沼意次も不運というか。彼の時代は「べらぼう」内でも描かれているように飢饉・天災が相次いで発生していました。
それが幕府の財政を圧迫してしまうため、少しでも赤字を減らそうとした田沼意次は倹約令や何やら、とにかく幕府の財政赤字を減らそうとしていたというお話。
この辺まで考えると、意次が商業主義的な政策を打ち出していた意味も少し変わってきます。そもそも飢饉・天災が起きている中で、米を中心とした経済を組み立てるのは無理ですからね。
「商業を重視した」というような形で授業で習った記憶がありますが、実際には「商業を重視せざるを得なかった」という側面もあったように感じます。
ただし、この辺の話は庶民にとっては関係ない話。
ずっと生活は苦しいまま、そこに加え飢饉・天災が襲ってくるのが田沼幕政の時代。
幕府の財政が厳しいなんていうのは当時の庶民は知ったこっちゃないわけで、そして現代のように政府(当時は幕府ですね)が何を考え実行し、その予算や収入・支出なんていうものは見ることができなかったでしょう。
さらに現代のように科学が発展しているわけでもないので、おそらく「田沼の悪政が天災を引き起こしている」といった考え方も当然のようにあったと思います。
ここに加えて賄賂が横行する幕府内部の現状など、田沼意次が悪く見える要素は多かったのかなあと。
それこそ田沼意知の急な出世はかなりイレギュラーなレベルだったらしく、田沼意次が他にも一族をどんどん取り立てて幕政を私物化しようとしているように見えた……という他の幕臣も多かったことでしょう。
こうやって調べてみると、田沼政治は飢饉・天災をいかに耐えるのかが軸であったような気がします。倹約令も上知令も、結局は幕府の赤字をなんとかしようとしたというのが現実。
前提がどでかいマイナスなので、なかなか「田沼意次が本当にやりたかったこと」が調べた限りでは見えてこないですね。なかなか可哀想かも。
とはいえ賄賂が横行したり政権を自分の一族で固めようとしていたのは事実なので、評価がなかなか難しい人だなあと思います。
幕府はそれまでの貯蓄を吐き出しながらなんとか課金・天災を乗り切りましたが、その赤字額を「田沼意次だったからこの程度で抑えられた」と考えるか否か……ですかね。
ちなみに意次の次に幕政を握る松平定信ですが、田沼政治期以上に厳しい倹約を庶民に強いたために、後に「田沼時代が恋しい」なんて意味合いの歌が詠まれたりしたそうです。
田沼意次と松平定信は対極の政治家として語られがちですが、現在では田沼政治と松平定信の寛政の改革には連続性が見られるという研究が進んでいるようです。
実は田沼意次も緊縮策を打ち出していたことを踏まえると、さらに厳しい質素倹約を打ち出した松平定信は政治家としてはむしろ後継者の面もあるのかもしれませんね。
