ふとここまでのお話を全体的に思い返してみたんですが、今年の大河は紫式部と道長の関係性や様々な恋愛模様というよりも、個人的には「家族」が色濃いテーマになっているのかなあと思いました。様々な「家族」がここまで描かれてきたなあという感想。
紫式部の家では、幼き日の母親を失った一件からの父親との不仲や、そして後半には母となった式部と娘・賢子の複雑な関係性。
道長は道長で、冷徹だが厳格な父。そして二人の兄。現在では妻が2人いて、それぞれとの間に子供もおり、娘は天皇の妃となり、息子たちも朝廷内で出世したり。権力闘争に明け暮れる人生の中で、現在そんな家庭内の方が上手くいかなくなってきていますね。
もちろん天皇家も、そんな道長の藤原家と密接に関係しながら「家族」というものを描き続けてきたように思います。一条天皇と彰子様の関係なんかは、家族になるまでの物語みたいな要素もあった気がします。
むしろそんな中、主人公である紫式部とメインヒロイン(男だからヒロインとは呼ばないかもしれませんが)は逆説的に「家族にはならなかった(なれなかった)」という点で異質な関係性なのが面白いポイントかなあと思います。
残りも数えるほどとなった、今年の大河ドラマ。ラストはどのような終わり方になるのか……。
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なんだか開幕から山盛り展開。
三条天皇に産まれたのは女の子で、さらに火事が発生して彰子様は一時引っ越し。せっかく離していた彰子様と敦康親王が同じ場所で暮らすことに。
道長はもはやストレートに、三条天皇に対して譲位を要求。
一方で藤式部は再び筆をとり『源氏物語』の続きを書き始めた……。
オープニングが流れる前の数分でいろんな情報詰め込みすぎだぁ!
これは……順調に(?)三条天皇の体調が悪くなってきました。
目も見えないし、耳も聞こえなくなってきています。これは政どころではないですね。本人のやる気とか関係なく、これでは仕事にならない。
道長、自分の腹心的な行成の心が自分から離れつつあるのは感じているんですかね。
この辺は徐々に疑心暗鬼になっていくわな。
三条天皇の信頼たる人間は実資ってことですか。
蔵人頭には実資の息子を推しますが、当然道長は拒否。
というか三条天皇の「じゃあ道長が自分の目と耳になれや」という発言、そのまま受け取ると「自分は道長の傀儡でいいので天皇続けたいです!」だと思うんだけど、いいのかそれで。どうせ言うこと聞かないのは分かってるから譲位させようとしているのはこれまた当然ですけど。
「人の上に立つ者は、限りなく辛く悲しい」
藤式部のこの感想。彰子様は東宮の未来に対しての言葉として解釈しているっぽいけど、これ道長にも当てはまってますからね。
現実問題考えたら、どう考えても道長が三条天皇に譲位をお願いするのは自然な論理ではある。
ここに来て実資が思いっ切り道長に厳しい問いかけをぶち込んできて、ちょっと見直してしまいました。
そうだよなあ。道長が考えている「民の幸せ」って、道長自身は産まれた時から最強レベルの貴族の家だから、そもそも「民の幸せ」が分かっていない可能性の方が高いのはそう。
実資の息子が蔵人頭に任命されなかったことで、実資の心はあっさりと三条天皇から離れるという。直前にちゃんとしていたのに……。まあこういう俗物的な部分も実資の魅力ですね。
急に倫子さん怖いこと言ってる……。
「私は愛されていないし、側室も愛されていなくて、道長の心には3人目の本当に愛している人がいる」というところまで感覚的に分かってるのが怖すぎるって。
為時が都に戻ってきました。
そしてそこに双寿丸もやってきて……。まあ母親である藤式部が公認だから、為時も止めることはしないか。
自分が道長との関係を諦めた過去があるから、身分の違いを容易く突破している賢子と双寿丸の関係を羨ましく思っていたりもするんでしょうか。
なんだかここに来て、太宰府赴任が大人気。
そして隆家の太宰府異動をあっさり認める道長。
そして、その結果行成の頼みはあっさり断る形になっている道長。これ行成大丈夫っすか?道長のこと急に襲撃しそうじゃないの……なんで行成の心だけ無視するんだ道長。
やっと清少納言が改心。まあ改心というわけでもないけど、生きるためのエネルギーとして復讐心を抱えることをやめたか。
賢子、大失恋。
双寿丸にとっては妹みたいなものだったわけですか。
隆家の太宰府赴任で色々動き出してますね。双寿丸もまた、それに着いていく形で太宰府へ。そこに賢子は連れていけないとバッサリでした。
「母上は振られたことある?」ねえ……。この時代に「振られる」という言葉はあったんですかね?
ところで双寿丸、藤式部の推理では「本当は賢子のことは好きではある」ってことになるけど、実際のところはどうだったのかね。
次回「望月の夜」。
いよいよ来ますね、藤原道長の有名な歌が。
これまでは全てを手に入れた道長の、自分の思い通りになっていることを「欠けたところのない満月」になぞらえた歌とされてきました。
ただ最近の研究では、そうではないのではないかという話も出てきているみたいです。今年の道長を見ると、そんな新解釈の方でいきそうですね、望月の歌。