心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

アグレッシブ関白!!近衛前久

大河ドラマ麒麟がくる」の影響で、名前くらいしか知らずどのような人物だったのか気になってきたのが本郷奏多さん演じる関白・近衛前久

ドラマ内でもちょっと変な公家みたいな感じに演出されていたが、とりあえず軽くWikipediaで調べてみただけでもこの人関白としては相当尖っていることが判明。

「関白が京の町をぶらぶらするなんてことないだろ!」
というか批判には、なんの脚色もなく
「いやでも、近衛前久なので……」
で本当に通りそうなくらい変わり者の関白だったようです。とても魅力的な人物ですぞ。

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主な引用元・参考資料はWikipediaになってしまいますがご容赦下さい。
近衛前久 - Wikipedia

関白らしからぬ行動力と豪胆な精神力

1559年の長尾景虎(後の上杉謙信)上洛の折に二人は盟約を結ぶと、翌年には長尾景虎の関東平定を助ける目的で近衛前久自ら越後に向かい、その後上野・下総に赴いたといいます。
まず時の関白が止むを得ずとかではなく、自ら京を離れるのが結構ビックリポイントなんだけど、その後景虎が越後に戻った後も自分は今の茨城県にある古河城に残り、関東の情勢を越後に逐一伝えていたという肝の据わった御仁。本当に公家かよぉ!

上杉謙信が第四次川中島の戦い武田信玄と激闘を繰り広げた頃、近衛前久はというと上杉謙信へと書状を送り、自身は花押を公家様式から武家様式に変えたといいます。勝手なイメージかもしれないが公家って武士を下に見ていたように思ってたんだけど、関白という公家でもトップクラスの地位にありながら近衛前久は武士の生き方に何か憧れでもあったんじゃないかと感じるエピソード。

まず「関白」という役職の本来の意味を考えると、天皇の補佐が役割なのに天皇から離れて越後・上野あたりに向かい、さらにそこにしばらく身を置くんだからなんかすげえことになってると思う。

関白解任と信長との交流

ドラマでも描かれた通り、前久は14代将軍に足利義栄を推挙。足利義昭から兄・義輝の死の背後に前久が関わっているのではないかと疑われたりした末、15代将軍となった義昭によって朝廷を追放されました。

ここから少しややこしくて、信長包囲網に参加したりするものの信長自身に敵意はなく、信長と協力関係にあった足利義昭の排除が目的だった。
そのため信長と義昭の関係が悪くなると、信長包囲網からは手を引くことに。そして信長が義昭を京から追放すると、信長は前久の帰洛を許したという。

ここから織田信長近衛前久の交流がスタートするようで。信長とは仕事とプライベート両面で友好的な関係が続いていた様子。
織田家を支えた軍事面での行動としては、今度は九州へと向かい対毛利の行動として大友・伊東・相良・島津の和議を。さらに信長が10年攻め落とせなかった石山本願寺と信長の調停を行い、本願寺から顕如を退去させることに成功しています。割と凄腕の外交官なのでは。また、武田家に決着を付けることになる甲州征伐の際には信長に同行した。
変わり者同士で相性が良かったのでしょうか。近衛前久の下準備によって信長の軍事行動が進んだり、あるいは停滞していた信長の本願寺攻略を前久の外交手腕でクリアしたりと上手く噛み合っている感じが興味深い。

またプライベートでは共通の趣味として鷹狩りがあり、お互いの成果を自慢しあっていたとか。なんだこの微笑ましいエピソードは。

文武両道の野心もある放浪面白関白

和歌・連歌に才を発揮し、書道も優秀で有職故実に詳しく、馬術に鷹狩りも腕前抜群。
関白時代から自ら動くアクティブ性を持ち、朝廷追放後も軍事力を持たぬものの戦国史の裏で暗躍、信長進出後は要所でそれを支え、本能寺の変が起こると家康を頼り浜松へ。関ヶ原の折には中立を保ちつつ往年のような外交的動きを見せ、77年という当時としては長生きな人生をたっぷり生き抜いた近衛前久

調べれば調べるほど面白くて、五摂家に数えられるほどの公家でありながらその生涯を諸国放浪するように生きた前久の視点から見た大河ドラマ、意外と面白いんじゃないかと思うんですがどうか。
上杉謙信との交流が本格化する1560年頃は、桶狭間の戦いが起こり信長がこの時代で頭角を表す頃。ここから関ヶ原以後まで生きるのだから、近衛前久を主人公にした大河ドラマは画的には地味めになるものの戦国時代後期を終わりまで描くことができる。


歴史好きな人なら絶対面白いとは思うんだけど、まあ一般受けはしないんかなあ。とはいえ武士の時代と思っていた戦国時代に、実は教科書に載ってることのすぐ裏でこんなに動いていた公家がいたってのはめちゃくちゃ面白いですね。