心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「子供は国の宝」という言葉の意味について

次回の西郷どんのサブタイトルが「子供は国の宝」で、それでなんとなくこの言葉を検索窓に入れてググって見ると……まあ出るわ出るわ、特にこの言葉に対して「なんだ?恨みでもあんのか?」くらい反論している人たちの怒りが。


「将来ニートになるかもしれないし、子供がそのままイコール宝なわけじゃないじゃん」みたいな論法が結構目立つなあと思って読んでたけど、なんというか、思考の段階がそこでストップしちゃってるのがなんかなあって。

問題は子供が宝として育てにくい、今の社会環境に問題があるんじゃねえの?という感じで、それこそ西郷どんを思い返しながら思ったわけです。

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結論から言うとこの言葉は、本来「子供が国の宝になるようにしようぜ」っていうスローガンみたいな物だと思っている。

社会保障制度を整備して、もっと働きやすい環境を整えるとか。
働く意欲が湧くような給与や仕事内容を煮詰めていくとか。
勉強したくても出来ない子供たちの支援を充実するとか。
こういう将来大人になる子供への投資が「子供は国の宝」じゃないかと思ってます。


そういう将来宝になるかもしれない子供たちを、ちゃんと宝物になるように磨き上げていける国づくりをしようよ、というのが「子供は国の宝」って言葉の意味だと思うのです。
子供イコール宝ではないのはそうだけど、ダイヤの原石みたいな物なのにそれを磨く環境や精神性がこちらに整ってない。宝になる可能性があるものをそのまま放置するような状況に問題がある。


そうなってくると、この言葉の問題点は子供じゃなくて我々大人になるよねって。
こちらがちゃんと宝になるように育てられるか、ちゃんと育てられるような社会環境が整っているのか。

そういうところを考えないで「子供は別に宝じゃなくねえ?」っていうのは若干無責任な気も致します。考えなきゃいけないのは「どうしたら子供を宝にできるか」ではないかなと。