なんとなーく今生きてて余裕があるんでふと考えてみたんだけれども、生きてて辛い時は「自分」との距離が離れている時。
個人的には「自分のために生きてない」時ですね。
なんかこう、電通の過労死した女性もそんな感じだったんじゃないかなと思う。
金が欲しいから働いているとしても限度みたいなものがあって、そのお金が明確な目的のためだったりするから耐えられるわけだしねえ。
以前「好きなことを仕事に出来たとしてもそれで身体壊すくらいハードだったら何か違うのではないか」みたいなことを書いたんだけど、それと同様に「目的のために今を耐える」にも限度がある気がする。
電通の一件も、忙しすぎる状態に追い込んで思考回路を奪って辞めることを考えさせない、みたいなカルト宗教の洗脳と同じ状態が結果として生まれてる感じがある。
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自分が今何処に立っているのか。
そういう座標をちゃんと見れていないと危ないのかなあとは思う。逆に言うとその座標が見えなくなってきたら要注意っていう。
やっぱ広い意味で万事自己客観性ですわ。これがあるかないかで自分自身の暴走を防ぐことが出来る。ギリギリのところで戻ってこれる……気がする。
話が飛ぶけど武術でも座標って結構重要なファクターです。
空手を例に挙げると重心移動とか極めて重要な訳で、その時に座標を考える。肩の位置とか、自分と相手の接触点の座標とかね。
そういう身体的な座標の考え方、実践には程遠いにしても「そういうのがあるよ」ってのを知っとくだけでも結構変わる。
んで感覚的にはそのまま生きるってことの座標にも意識を向けられる。飛躍気味だけど……あれ?僕だけ?
時間、金銭、体力、こう全体のバランスはあれど余裕がある場合は自然に座標を認識してるんだけど、余裕がなくなると見えなくなる。マヌーサかけられてる感じ。
忙しい時こそ「なんのために今何をしているか」みたいなことを意識的に思い返さないと、ぶっ壊れる。
気がつけば壊れ、その壊れてしまったことに気がついてないっていう一番ヤベエ状態が待っている。