なんというかですね、わたしが格闘技好きなのも旅に出たくて仕方がないのも、お遍路したかったり無人島て生活したかったり山奥に隠遁したかったりするのも、「生の純度が高まる気がするから」でまとまりそうな気がしてきました。
人間って全然偉くないどころか生き物としては超低いランクだと思って人間やってます - 心の雑草
以前コチラの記事で書いたことにもつながるんですけど、どうやらわたしは「人間として」よりも「生物として」の生にウエイトを置いてるんじゃないのか、ということにぼんやりながら気が付いたのでした。
ひたすら散歩したり、ひたすら瞑想したり。
それは一時的ながらも人間の作り出した社会から自発的に隔離することで、「生物として」の脳が活性化しているからではないか、などと思うからです。
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人間が動物とは異なるのは、知覚したものをそのあと脳を使って言語化したり、理論化したりするということ。
これは人間が人間たらしめる重要な機能ですし、これがあるからこそここまで文明は発達してきたと思うのですが、それこそ同時に「純度」を下げる機能ともいえると思うのです。
右脳でおこった感情が左脳に移って思考されることを禅では最も懼(おそ)れる。それこそが心の鏡を曇らせることだと考えているフシがある。あれこれ坩堝に入れて考えるから、犬猫にはないとんでもない二次感情が生まれるというのだろう。
禅が求めるものというのは、犬猫に戻りましょうというものではありません。
人間だけが持つそうした「心を曇らせる機能」自身を活用、転換して、通常無意識下にあるそういった機能自体を意識下に引っ張り出してコントロールでいるようにしましょう、というのがわたしなりの禅の解釈です(現状では。諸行無常ですからいつでも変化する可能性があります)。
それは徹底的に自身の心を単純化していく行為とも言えます。
日常生活を送っていると気づかないものなんですが我々は気持ちが悪いくらいに過去と未来のことばかり考えていて、坐禅中は「今」にフォーカスすることを修練するので、一時的ではありますが情報量が激減して非常に心がクリアーになります。
また他者、社会との関係性も一時分断されるので、そういった面でもクリアーになっていきます。

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以前紹介させていただいたこちらの本には、
すべての悩みは「対人関係の悩み」である
という章が出てきまして、実際に禅を行なっていてすっきりしていくというのは、この「すべての悩みが対人関係が原因」というのを表しているような気がします。
坐禅や瞑想というのはこういった単純化する行為、ありもしない過去や未来にとらわれないこと、必要以上に他者との関係に煩わされないようにすることを意識によって習得していくことでもあって、最終的には現代社会においてうまくそれを取り入れていけるようにすることではないか、と思うのです。
動物たちはきっと過去や未来にとらわれたりはしていませんし、他者に気を遣って生きているというのも人間ほどではないでしょう。
それでも彼らは、それを無意識で行っているだけなので、人間とは少々異なるものです。
「人間」のまま動物「ホモサピエンス」に戻ろうという営み。
それが坐禅に代表される修行なんじゃないかなあ、などとここのところは考えながら禅を組んでいます。
こちらの記事のタイトル「ホモサピエンスの坐禅の果てに」は、
金田んち
こちらのブログを書かれているid:henohenoktmk様から頂戴いたしました。素敵なタイトルありがとうございます。