心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

恋愛感情欠落してる人って意外と多いと思ってる

「好き」ってなんですか? - 仕事は母ちゃん

前々から書きたいと思っていたけど、文章にするのが難しくて止まっていたテーマのとっかかりに素晴らしい記事を見つけた。

id:plutan氏とまるで同じような感覚が私にはある。というか、私には「恋愛感情」というものがかなり希薄であると思われる。



「初めは先輩として尊敬していたんだけど、それがやがて恋愛感情に・・・」
「小さい頃は同性の友達のように遊んでいたけど、成長とともに異性であることを意識するようになって・・・」
とか。


こういうのたまーに見るけど、これって「先輩として好き、友人として好き」を「異性として好き」に頭がすり替えているとは言えないだろうか。
個人的な意見なんだけど「好き」という感情は「友人」「家族」「異性」「食べ物」みたいに細分化されてカテゴリー分けする必要はないし、「カテゴライズしよう」としているのは結局自分って話なわけで・・・。



たしかに細分化しておいたほうが楽なのだとは思う。自分の感情が明確に言語化できないというのは気持ちが悪いから。
恋愛ドラマとかで「なんだ、この気持ちは・・・」みたいになるのはいい例かもしれない。
最近の流行ってる歌は「好き」とか「愛してる」とかストレートに歌詞にしてしまうものも多いし。あれ微妙な感情の機微がなくて個人的にはうんざりなんだけど。


で、結局それをなんやかんや必死に整理整頓していったときに「あれ、オレあいつのこと好きになってるんじゃね?」みたいな場所に着地するわけだが、それは今までテレビや書籍や聞いた話などの外的要因によって「恋愛感情という着地点に引きずり込まれている」可能性は多分にあると思うのである。



最近よく読んでいる本に内田樹氏の著作が非常に多いのだが、氏の言うように「もっと身体の声を聴く」という行為を行っていったほうがいいかもしれない。

身体にとっての「好き/嫌い」の条件は「快/不快」でほとんど説明できるように思う。
美味しいものを食べたら快、まずいものを食べたら不快。
気持ちが良ければ快、痛かったり苦しければ不快。

人間関係だってそんなもの。
「この人といると気分がいい」は快で、「こいつとは一緒にいたくねえな」が不快。
恋愛も友達も家族も上司も部下も、結局はこの「快/不快」というもので説明できてしまう。



じゃあなぜ、恋愛感情に誘導されやすいのか?
それはもちろん、人間が子孫繁栄をDNAレベルで半ば義務付けられた動物だからである。

下世話な表現になってしまうが、子孫を残すためには異性とセックスしなければならない。だからこれまた身体の声でもあるあたりが何とも言えないのだけれど、「異性に対して快を感じた場合、恋愛感情に心身は定義しようとする」プログラムが初めから組み込まれているのではないか、とか考えている。

そりゃあ強力な呪縛とも言えるでしょう。DNAという根本レベルに食いついたシステム。何も考えずにいれば個人の意志なんてあっさりだまされるに決まっている。



私は家族との関係性がおそらく異質であり、もっとも近しい関係性を示す表現は「友人」である。一緒に暮らしているが、ルームシェアしている感覚だ。
友人とはもちろん「友人」だし、異性に対しても「かわいい」などの感情は持つことはあっても接し方はやはり友人。
結局大体の人間関係のスタンスは「友人」であり、こうなるともはや便宜上この人間関係を「友人」と呼んでいるに過ぎない。
目上の人や上司には敬語を使うし尊敬することもあるけど、「社会性」というフィルターを通した結果。
将来私が結婚することになったとしても、「ぶっちぎりの親友がたまたま異性だった」みたいな感じになりそうだ。


「人を好きになること」は、本来もっとシンプルなものなんじゃないか。
普段から頭でっかち、思考優先で生きている私だからこそ、人間としての根源的な部分は身体の声に耳を傾けている。


先日読み終えた「健全な肉体に狂気は宿る ――生きづらさの正体 (角川oneテーマ21)」の第6章「まずは身体に訊け」をヒントに書かせていただきました。