心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「まんが哲学入門」 2周目感想・前編

こんにちは、一歩です。一日一記事。つれづれなるままに書き書き。

今日はあまりやった人いないんじゃないか?ということに挑戦してみます。

森岡正博+寺田にゃんこふ「まんが哲学入門」2周目の感想です。
一度紹介した本でもう一度感想を書くという新境地。それもこれも、本書が哲学書としては驚異的な読みやすさを誇るおかげです。
では前回より少しだけディープに、行ってみよう!


・第1章 時間論
学生の頃、ゼミで同じようなテーマについて考えたことがあったのですが、大筋は森岡氏と同じ考え方に至ったのを覚えています。
過去は存在せず、存在しないからこそ記憶や書物やデータとして過去が「存在した」ことを“今”という時に証明しようとするのだ、みたいな。まあ「今」を「今」と定義した瞬間には、「過去」になっているんですけど。
だからタイムマシンが出来たとして、未来には行けても過去には行けないんじゃないか?とか考えてました。未来はこれから「存在する」ものですからね。まあその瞬間には「今」になってるんですけど。
ただ本書のように生命論と組み合わせて考えたことはなかったので、なかなか面白く読ませて頂いたところでもあります。過去や未来への生々しいほどリアルで強烈な想いが、生きようとする意志だ、と。
『「生きよう」とするとは、「いま」の土俵の外へと羽ばたいて、「いま」ではないものとつながっていこうと欲望することなのです』。うーん、カッコいい。なんというか、一見ネガティヴに捉えられがちな欲望を前向きに捉えているのがスゴくいいですね。


・第2章 存在論
私の最も好きなテーマである「存在」。「ある」も「在る」と書くと、途端に哲学っぽくなります。在るマジロ、ベスト在るバム、在るコール消毒スプレー。違うか。

目で見えてないものを「存在する」と言えるのか?という問いは、まあ色々な哲学者が色々な考え方を出していますよね。
例えば目の前のテーブルにリンゴが一個置いてあったとして、僕らはそれを見て色や形から「リンゴだ」と判断するわけですが、生まれつき目の見えない人が同じ状況にいた時、その人にとって目の前のリンゴは「存在しているのか?」というような問題です。匂いで判断!とかそういう細かい話はなしにしてね。
「存在する」から「心がある」のが唯物論で、「心がある」から「存在する」のが唯心論で。とんでもなく端折りました。語弊しかないので気になった方は調べてみてください。私では説明しきれません。

ちなみに私は唯心論気味で、同じ物を見てもそれぞれが違う感じ方や定義をしている以上、厳密に「同じ物」を見ているとは言えなくねーか?と思うわけです。
例えば二人の人間の頭上からリンゴが降ってきたとしましょう、大量に。一人は「うへへリンゴだぜ、俺はリンゴには目がねえんだジュルリ」と思った。
もう一人は「これは……リンゴじゃあないのか……。投げられると非常に痛く素手で潰すには握力が必要で、食べ物としても私はこのシャリシャリ感も甘さも苦手だ……それがいま、果汁とともに飛び散っている」と思った。
この二人にとって「リンゴ」とはもはや別の物だと言えませんかね?もちろん科学的なデータとしてはただ一つなのですが、心が違う捉え方をしている。この二人にとってリンゴが持つ意味は全く異なるわけです。

……えー。脱線しました。ついテンションが上がってしまう、それが哲学。
本書では生きる意味とリンクして考えているので、「何故自分は生まれてきたのか?」について言及しています。これがまた良いこと書くんですね、森岡先生は。
「生まれてきたことは奇跡であり、その奇跡によって必然的に生まれた。
不安、悩み、絶望、それらでさえ“必然の奇跡”から生まれ出た」と。なんだか、生きる力が湧いてくるじゃないですか。


長くなりましたので続きは次回としますか。
興味持った方は、是非手にとってみて下さい。
森岡正博著・寺田にゃんこふ画「まんが哲学入門 生きるって何だろう?」


1周目の記事はこちらです。
「まんが 哲学入門」感想

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