心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「有我」と「無我」のとりとめもない話

最近こんな本を読んでいる。


ウパニシャッド」ってのは古代インドの神話であり哲学である。まあ哲学色のほうがだいぶ強いけど、詩や散文でいろんな人達が遺したものの集合体を総じて「ウパニシャッド」と呼ぶもんだから、同じウパニシャッドの中でも矛盾があったりする。


そんな中、時代とともに共通されてきたウパニシャッドの世界。
その一つが「ブラフマン(梵)」と「アートマン(我)」という概念だ。



アートマンは「我」と書く通り、己という意志のようなものを指す。
ブラフマンは「梵」と書くのだが、まあこれは宇宙全体の意志みたいものを指す。


「梵我一如」という言葉があるように、古代インド哲学での精神の到達点はアートマン=ブラフマン、即ち自分というものと宇宙というものは同じものだと「知る」ことになっている。


あれ?仏教っぽいなーとか思ったらやっぱりそうだった。というか、古代インド哲学は形や表現を変えて仏教にも姿を表したりしてる。仏教とインド哲学は相性がいいらしい。



さて仏教行ってみる。
仏教における悟りの形として「無我」がある。「己はない、あるのは宇宙の意志だけ」みたいな感じ。厳密に言うと違うけど分かりやすくいうとこんなん。

うおお、ウパニシャッドとは違うけど同じみたいな不思議な気持ち。



ウパニシャッドでは「我=梵」であることを知ろうとするのに対して、仏教では「我が存在しない」ことを知ろうとする。


我があるからモノに執着したり、心が荒れたりするからねえ。お坊さんが書いた自己啓発本みたいなやつではそういうアプローチになるし、唯識思想(自分がいる世界は、自分の五感と思考によって作られた自分だけの世界という考え方)においては、そもそもの「自分が作り出している世界の元になってる唯一の実体世界」があることを理解しましょうね、すると相対的に無我であることに近づくよみたいな流れだったりする。



まー結局何が言いたいかっていうと、ウパニシャッドでは「有我」から真理へとアプローチしていて、仏教では「無我」からアプローチしている…っぽい。
真逆の点からスタートする二つの思想は、結局「梵」という点においてほぼ同じ形の真理に到着する不思議。
「梵=我」と「無我」って、言いたいことはかなーり似ている。



「仏教においてアイデンティティってのはどこに求めるんだろう、無我だからアイデンティティの存在の意味自体を問うのか?」とか思ってたら、ウパニシャッドに出会った。
「梵=我」なら、現代社会で大人気のアイデンティティにもスムーズに話ができる気がする。


織田無道とかアイデンティティ凄かったんだろうな。