心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「AでありBでもある」と言い切る選択肢

「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ - Chikirinの日記
読ませていただいた。たくさんの方がこの記事に対しての考えを示しているし、自分も波に乗って書いてみる。


先に紹介した記事での意見は、まあ基本的に間違っていないとは思うのだ。
でもなんというかモヤモヤしたものが残っていて、それは「AでもありBでもある」と言い切る選択肢に言及されていないこと。
そりゃあ何の意見もない人が脊髄反射のように「AかつB」というのは私も意味が分からないと思うが、ちゃんとした思考の先にある「AかつB」に辿り着いた場合、これは一つの選択として認めなければいけないよねって思う次第。


ブログの記事的にもどちらかに強く偏った意見をぶち上げた方が反応も増えて面白いんだろうけど(実際ちきりん氏の記事も反応は多いのだと思う)、もはや別に読まれなくてもいいから思ったことをそのまま書いておく。


「決断できない弱さ」と「決断しない強さ」は表裏一体で、これこそ「AかつB」の良い例かもしれない。

答えとして一つを選択しないといけないって、見方を変えると弱さにもなり得るんじゃないかと。
人間生きてりゃ選ぶ暇もなく、ふわふわした状態でもとりあえず漕ぎ出すしかないことだってあるはずだ。期限やタイミングが迫った時、「Aだと言い切る」ことに執着していくと、最後には「Aだと言い切るまで歩き出せない」人間になる可能性だってある。「AかBか分からないけど、とりあえず一歩足を出す」力だってやっぱり必要だ。

「決断する速度が大切論」も重々分かるのだが、無闇に急いだ決断はやっぱりリスキーだし、本当に大切なのは「決断を下すまでの速度」を上げるための「データ収集の速度、解析の速度と正確性」なんかだと思う。AとB、どちらが正しいのか分からないまま走り出し、走りながらどちらが正しいか見続けて判断していくのだって有効な技法だと思うのだ。


自信を持って「Aだし、Bでもある」と言い切るのだって立派な選択だし、わざわざ急いで自分から選択肢を消去する必要はないんじゃないと思う。

テーゼである「A」があって、アンチテーゼである「B」があって、それらを吟味した先にジンテーゼである「C」が現れる。

そのCは「AかつB」かもしれないじゃないですか。その「AかつB」は決断された力強いAかつBだ。

「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ - Chikirinの日記
という記事がA。

これに「いやいや、ちょっと違うんじゃない?」なんていうBの記事が書かれる。

そしてその二つを読んで「『Aとも言えるがBとも言える』という、優柔不断ではない形で立ち現れるCが存在する」というCの意見を考えて、今考えている自分がいる。……ちょっとABC繰り出しすぎて分かりにくくなってきたな。


とりあえず視界を減少する可能性があるやたらめったらな決断推奨も、だからって先に進めないほどの優柔不断も、「どちらかだけ」ってのはどっちも正しくないと思うんだよねい。


その場しのぎの「AかつB」ではなく、ちゃんとした思考の先に現れるジンテーゼとしての「AかつB」が役に立たないとは、とても思えないのである。