心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

躁鬱モードの振り返り

ここ数年で随分落ち着いたものの、10代の中頃あたりは普通に躁鬱病ではないかという精神状態だった自分の過去も思い返しながらつらつらと。

この躁鬱病、まあ自分の場合は躁鬱気質程度のごく軽いものではあるけれど何が厄介かって扱い方を間違うとターゲットが外界に向くんですな。

「ごみくそですぼくは。ごみくそ。ごみくそですどうぞよろしく」
ならまだいい(良くはないか)んだけど、なんだか勘違いしていくと
「僕だけが正しいのではないか?世界が全部おかしいのではないか?」
という考えが掠めたりする。

後から思えば「俺一人のために世界がお膳立てしてくれるわけねーだろ」と思うし、そもそも「双極性障害」という名前で言ってみればちゃんと病気の一つとしてカテゴリーされてるわけで、まあぶっちゃけ世界は健康体の人に合わせてるよな、そりゃ。

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独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

ちょうどそんな躁鬱モードが強まってた時にこちらの本を知り、そのままこの著者の本を何冊か読み漁ったことがある。
ざっくり言うとこの人は本人が躁鬱であって、その躁鬱をそのまま肯定しながら生きていくためにどうのこうのしてる、みたいな人。だから躁鬱のバイオリズムが発動してる時に読むとなかなか勇気付けられる……んだけど落ち着いてから違和感がある。

端的に言うとなんかどこかで健常者を敵対者として見てるように感じられる時があるんですよね。
「どうせ理解してもらえない」と考えるのと「理解出来ない奴らがおかしい」では全然異なる。で、自分が読む限りどちらかと言うと後者寄りの論法になっている……ような気がする。
世界が自分たちに合わないなら自分で世界を作ればいい、までは分かるんだけど、それで侵食していくのはまた別のお話というか。


もうねえ、ぶっちゃけもっとドライに生きていいと思うんだよね。面倒だし。
初めからどうせ誰も自分のことを理解してくれるなんて思ってない。というか「もっと俺を理解しろよ!」ってのが既に相当な傲慢だと思うんです。自分でも自分のこと良くわからないことあるのにそれを「理解しろ」ってそんな殺生な。

とりあえず合わせようとしても限度があるし、合わせてもらおうってのも偉そうなので「自分は違うんだなあ」ということを淡々と理解して割り切るしかないと思ってる。
というかそれからようやくスタートじゃないかなあ、などと。それで大分楽になったし、あとそれで醒めたのもあったのか躁鬱自体がマイルドになって、現在です。