心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

自分を特別だと思わなければ優越も劣等もなくなるんじゃないか

ちょっとTwitterでつぶやいたんだけど、優越感も劣等感も「俺は周りとは違う」っていう考え方が起点になってるんで、本質的には同じ系統のなんつーの?アレなんじゃないかと思ったんですな。


アリューゼさんも言ってました。
「天才?そんなの大昔の負け犬が作った言葉だろ。
俺とは違う。
奴は“特別”だってな。」


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個人的にはどっちにしてもどんだけ自分に対して特別視してるんだよと思う。
「俺より周りは劣っている」が優越感だし、「俺より周りは優れている」が劣等感で。

これってちょっと面白いんだけど、まるで世界の基準が自分自身みたいな振る舞いなんだけど、その肝心の世界はものっすごい狭い世界。
だってその世界は自分の手が届く範囲の世界でしかないし。

ありがちな例えだけど、僕らの今生きてる日本と違ってその日の飯を食うことすらままならない国があったり、それこそ今なんか世界規模でテロの脅威に脅かされてて難民になったりする人もいるわけですよ。
逆にゲイツ的な超絶お金があって全然生きることに苦労がない人もいる。そんなゲイツ的な人だって物質的には豊かだけど心は泣いてるかもしれない。

そういうところまで世界を拡大したら、ほとんどの人間は中間層に入ってくるんじゃねーかなと思う。特別どころか圧倒的マジョリティだ。
いじめを苦に自殺する子供なんかいるけど、やっぱり単純に生きてきた時間の短さもあって狭い世界で完結しちゃってて、その中で「自分」を定義すると「特別不幸なんや」となっちゃうのかなーとか(当たり前だけどイジメカッコ悪いは前提で)。

だから学校以外のコミュニティ作るのが良いんだろう。これが避難先になるだけじゃなくて、世界が広くなるってわけで。
大人になって色々耐性ついてくるのは、経験とか知識によって世界が広くなっていくからじゃねーかなと思います。

狭い世界において自分を置いてみれば、なんというか上とか下とか分かりやすく出てしまうのかなあと。
世界っていう分母がデカくなると、そこに自分を置いた時に極端な偏り地点に至りにくくなる=結果的に優越感とか劣等感を感じるような特別視が起こりにくい感じ。


まあなんですか。
自分は自分が思ってるほど大した奴でもないし、だからと言ってすげー劣ってることもない。
そもそもそんなこと考えることがおこがましいっつーかね。そんなこと考えてました。そして初めに書き出した時に思ってたのと少しズレた着地をしましたね今回の記事。