心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「生きること」を目的に生きてもいい

平常心のレッスン (朝日新書)

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阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

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ただ坐る 生きる自信が湧く 一日15分坐禅 (光文社新書)

ただ坐る 生きる自信が湧く 一日15分坐禅 (光文社新書)


このあたりの本は、本棚の近いところに置いといてなんとなくパラパラ開く、そんな読み方をしている(いずれも読み終わったあとでちょいちょい開いてしまう)。
やっぱり自分は仏教的な考え方が性に合うらしい。



仏教思想的に世界を捉えると、世界は一つではない。


生命と同じ数だけの世界がある。それは、それぞれの生命にとって世界の見え方は異なるからだ。
日本ではペットとして扱われる犬も、他の国では食用肉としてみなされることがあることからもよく分かる。


まあそれは置いといて。
「生きること」「死ぬこと」。そんなことについては常に考えているのだ。

特に「生きる理由」について。
「それを探しているならまだしも、探しもせずにただ生きているのは、死んでないだけだ」
みたいなカッコいいことをほざいていた時期もあったんですけど、本を読んだりしながら考えているうちに考えはだいぶ変わってきた。


手段と目的を同じにしてしまうのは、ほとんどのことにおいて誤ちになりかねない。

だが「生きること」に関しては、同じでもいいと思うようになった。
「生きる理由」は「生きるため」でもいいじゃない。


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「生きる理由」というマクロなものは、ミクロな幸せの足し算

自殺する理由に対しての個人的見解 - 心の雑草

先日書いたこの記事は、裏返し的に私なりの「生きる理由の列挙」という側面も持っている。

「ラーメンがうまかった」とか「コンビニの店員のお姉ちゃんが可愛かった」とか。
そういう日常レベルでのミクロな事象の積み重ねが、マクロな「生きる理由」というものを構築してるんじゃないか?
少なくとも私はそうなんじゃないか?
あれ?明日の日直は俺なんじゃないか?


そういう話をさせてもらったのだが、これをもうちょっと根源的なところまで詰めてみることにする。


「ミクロな幸せ」とは、個人個人の世界で変わる

「あのコンビニの店員のお姉ちゃん可愛いよなー」
「そうですかね?僕はもう少し綺麗系のほうが好みだけど」
この時点で二人にとって、「コンビニの店員のお姉ちゃん」という要素に対する幸せ度は異なる。


仏教的にはそういう「一人一人の経験や生まれ持った性格や、そういうものを抱合した深層意識」である阿頼耶識(あらやしき)というものがあって、まあこれがそれぞれの世界を構築する土台となっているのだが。

それまで生きてきた中で作られてきた阿頼耶識は、生きる理由たり得るに十分すぎる。
それは「自分が生きてきた全て」であり、「生きている今」を現在進行形で吸収しながら成長し続けていくものだからだ。


「生きている全て」が阿頼耶識ならば、それによって生きている私たちは「生きるために生きている」

書いててわけわからなくなったんですが、阿頼耶識というものがそれぞれの生命の、いわば「生きる起源」であるわけで、無意識下でそれに突き動かされて生きているということは、「生きていることによって構成されている阿頼耶識を原理に生きている」という謎のループに突入する。

結果として阿頼耶識は生きることによってさらに豊かになって、それはさらに生きることの原動力となる。

こ……これは永久機関のヒントちゃうんか。


というわけで終盤飛躍しすぎて若干トンデモ理論ですけど、「生きること」は「生きること」を理由にできることがよく分かりました。


座禅なんかで悟ると「無我」に至るなんて話もあるが、私なんて存在しないということに気付くというのは、「世界なんて存在しない、あるのは阿頼耶識によって作られたそれぞれの想像世界だ」ということを識ることとは密接なことのように思う。

そしてそれは「生きる理由なんてものはない」にもたどり着けそうだ。
なぜならそれは「生きること自体が生きる理由であるから」みたいな。


……あれ?生きる理由は小さな幸せの積み重ねという私の論理はどこいった。