心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

自殺する理由に対しての個人的見解

「自殺」に関して〈個人〉と〈社会〉の両側面から考えたい - ぐるりみち。

自殺する人は弱い - grshbの日記


どちらも読ませていただいた。

「死の恐怖に打ち勝つ強さ」「死という選択肢をとるしかなくなるまで変えられなかった弱さ」。強弱というモノサシで自殺を考えれば、この二つの考え方に至るだろうか。

また、そういった地平ではないならば状態が揃った時にスイッチが入り、自殺に至る。たまたま精神が追い詰められている時に、目の前の踏切に電車が迫っている……みたいな。これが偶然論だろうか。



先に挙げさせていただいた記事には「運」や「タイミング」が自殺のトリガーとして語られ、後の記事ではしっかり「自殺は弱い」と論じられている。


とりあえず自殺に強いも弱いもないんじゃないですかね。
そしてタイミングというものは確かにあれど、そのタイミングはそれまでの積み重ねによって回避可能ではないですかね。


まずは強弱について。
「自殺」という選択肢に至るまでの道筋は、人の数だけ存在する。
中には強弱というモノサシによって説明できる道筋を持った人もいるだろうが、それを全体に拡大解釈することこそがナンセンスだと思う。


次にタイミングについて。
確かにそういうきっかけの重なりによって、死に導かれることはあるだろう。
だからってそれにホイホイついて行ってしまうってのはねえ。そうならないために何が出来るのか、まで考えたい。


正直「どちらも違う」と思うけど明確に反論できるほどの語彙と中身がないのでこれ以上書けないから、とりあえず自分なりの「自殺」に対しての考え方を書いてみる。


結局は気付くかどうか


個人的にはアウェアネスの問題である、「自殺」という事象

要するに
「生きる理由に気付けるか、生きる理由まで昇華できるか」
であって、「美味いラーメン屋をみつけた→また食べたい」程度のことを生きる理由にできるかだったりすると思ってる。


一見どうでもいいようなことが生きる理由である、と気付くことができるかが個人的にはすべて。


ラーメンが美味いとか、道端の石ころが面白い形をしているとか、来週の「MOZU」が楽しみで仕方がないとか。
帰り道の夕暮れがすげえ綺麗だったとか、今すれ違ったおねえちゃんが美人だったとか。ツイッター志茂田景樹さんのつぶやきに感動したとか。
そういう日常にあるちょっとしたことを積み重ねて積み重ねて、「生きる理由」というラインまで積み重ねて生きている、そういうものだと思うのだ。


私は、そうやって常に何かによって生きる理由を積み重ねていかないと辛い程度には、生きるということは難しいことだと考えている。


だから常に広い視野を持って新しいことにアンテナを張っていなければいけないし、ガンガン本を読んで内面世界も広げていかなければいけない。私はそういう人間であり、故に常に何か本を読み、どこかに一人で旅に出たりする。
体調を崩して家に引きこもっていると、身体より精神が先に限界を迎えるし。二日間家から出ないなんてことは基本的に不可能な人種だ。


変化がなければ気付きの材料がないから、生きる理由がアップロードされずに死にたくなる。
イジメなどの原因ではない漫然とした自殺願望の場合、こういう道筋で自分は死にたくなるだろう、と思う。

※実際中学校の時に家と学校を往復するだけの生活の結果、一時的にやんだのだが、その時導いた答えは「死にたい」ではなく「家出して一人で旅に出たい」だった。結局旅には出なかったが身支度をするまでには至った。



「復讐」とか、そういうレベルまで根強い深く強力なエネルギーがあるのなら、耐えられるだろう。
でもほとんどの人にはそんなものはない。
小さな小さな「生きる理由」を、常に装填しながら生きる。

そういうものだと私は思う。