心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

安部公房「鞄」を読んで、2種類の自由について考える。

笑う月 (新潮文庫)

この短編集「笑う月」に収録された、安部公房作の短編「鞄」。


ある日、「私」の事務所に一人の青年が訪ねてくる。それはなんと半年前に出した求人を見てのこと。
そんな常識外れな青年は一つの鞄を持ってきていて、まるでその鞄に導かれてきたような口ぶり。その鞄を持ち歩く意味はないのに自分の意志で持ち歩き続けているような……。

ともあれ雇うことにした「私」。青年が事務所に残した鞄を手に取ると……。



これまたある方からの紹介で読ませて頂いた作品。ページにしてわずか8ページなのだが、「自由」とは何かを深く考えさせられる。
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解釈についてもたくさんの人が書いていて、「安部公房 鞄」なんかでググるとなかなか興味深い。



この作品に出てくる鞄っていうのは一種のスタンド能力みたいなもので、端的に言うと所有者の行動を支配していると言ってもいい。
手にすれば手放すことがあり得ないほどの気持ちになり、持てば歩き出したくなるし、そのくせわずかな段差や傾斜は通過できなくなる。

だけど持っている人間は何故だか心地よく、歩くのをやめたくなく、この上ない「自由」を感じるのだ。

与えられた「自由」

この作品の中で描かれる「自由」とは、鞄=他者によって与えられた自由だ。

与えられた自由ってすごく居心地いいし何より楽なんですよ、責任が与えてくれた人にあるから。

それは例えば過保護な親と、その子供に例えられそうだ。
子供には何不自由なく生活できるように与えるので子供の視点では自由だし、はみ出したところは親が見えないところで責任を処理する。
だけど親の視点から見ると、ここまで与えてこの先は与えないということが行われているわけで、これは「制限」と呼ぶにふさわしいだろう。


作中では「鞄に与えられた自由」が強調されるから、当然鞄の所有者は不安も感じないわけだ。鞄が導いてくれる道を進むだけのことに責任はないのだから。


ただ「私は嫌になるほど自由だった。」で完結するあたりとか、鞄は赤ん坊の死体3つ入る分のサイズだなんて比喩をするあたり、作者にとってこの「自由」はネガティヴなものってことでしょう。嫌になるような自由とか気持ち悪いもんね。




じゃあ本当の自由ってなんですか、と。


選択した「自由」

んで私が考えるに、本当の自由って「自由を捨てる」自由も含まれて始めて自由なんだと思う。鞄は自由を強制するんだから、これは自由ではないんじゃないの的な。

【自由】とは、全ての【由】を、【自ら】に求める事!自分で考え、自分で動き、結果、自分で自分の責任(ケツ)をもつ事で、自分の存在、その瞬間を創っていくことなんだッ!!

PS2用ソフトワイルドアームズ アドヴァンスドサードのセリフから。

本当にこの言葉好きすぎてまた引用しますが、これが本当の意味での「自由」なのではないかと。


「え?自由くれるんですか!お願いします」の結果の自由ってあげた側から見れば拘束であることは既に述べた。


「オレは自由になる!そのために自分の力で自由を掴み取り、それまでのプロセスもその先の自由も、清濁併せ呑み全てオレのものだ!」でありたい。

始まり、経過、結果。選択してきた全てに自己の責任があって始めて「自らに由となす」、自由だ。



だからねえ、本来の自由って辛くて苦しくて、理解できない奴から見れば一見不自由なようなものだと思うんですよ。

だから人から与えられた自由に逃げたくなるんだよ。楽だもん。制限された視界だから危険もないし。
親が子供に「好きに遊んでいいぞ」って言うのと同じ。それは何処かで親が見てくれているっていう安心がある。



「遊ぶ世界の広さを自分で決める」までして始めて「自由」と呼べるシロモノじゃないのかい。



ということで、逆説的に本当の自由ってのは責任も伴うし覚悟が必要であるってことが書かれてるのかなあみたいな。楽な自由って、小説を読む読者みたいに客観的に見るとこんなに気持ち悪いものなんだよってお話かと。


それでも与えられた自由が楽なことは間違いないし、それを「選択」する人を否定はしません。理解はできるが共感できないくらいの感覚。


……え、私ですか?
一般人よりは本当の「自由」に近い生き方をしてると思ってはいるよ。




笑う月 (新潮文庫)

笑う月 (新潮文庫)