心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

丸山健二「まだ見ぬ書き手へ」 感想&ゴルゴ13との共通点

久しぶりに書評的な記事を。こりゃまたすげえ本を読んだ。

新装版 まだ見ぬ書き手へ ( )

新装版 まだ見ぬ書き手へ ( )

丸山健二著「まだ見ぬ書き手へ 新装版」。1997年に出版された「まだ見ぬ書き手へ」に、新装版のための序を追加して2013年に出版された本だ。
お金を稼ぐことや編集者とつるんでなあなあな作品を量産することが当然になりつつある腐った文学界を痛烈に批判しつつ、この本を読む読者のなかに潜む、「孤独の中から純粋、最高の文学作品を生み出す者」に向けて書かれた本。序によると、どうやら1997年に書いたことが通用するどころかますます悪化しているようだ、日本文学は。


とにかく内容が強烈。うがった読み方をすれば半ば宗教じみているような。アドバイスではなく、強制。独善的とも言えそうだ。
ぶっちゃけこの本の通りやると、それこそストレスで精神崩壊するんじゃないかと思ったりして。

ただそれだけ現代文学界に怒りや絶望を感じているのだろうし、それゆえにほとばしるパワーが凄い一冊だった。

「ひとつの道に進む覚悟」について学ぶなら、突き刺さるくらいに効く本。「覚悟の書」としての自己啓発的にも読めそうだ。

もともと「ゴルゴ13」が好きな私に、ある方が紹介してくだったのがこの「まだ見ぬ書き手へ」なのだが、確かにゴルゴの職業観と近しい部分が多い。

どこまで冷めた目で自分を見つめられるかどうか

こんな一節が出てくるが、小説家や芸術家、あるいは自分のような料理を生業にする者には確かに重要なファクターだと思う。
自分の経験上、自分で食べるものにはさほど関係ないのだが、それをお客様に食べてもらうとなると話は違うのだ。

自分の味覚を客観視できていないと、食べる相手に対してのベストな味というものが見えてこない。
たとえば「自分はしょっぱいものが好きだ」ではなくて「自分の好みは普通の平均より少し塩辛い」という認識にしていないと、自分にとって一番美味しいものは他人にとって美味しくないということが分からない。


ともかく、ひとの感情を動かすような仕事をする人こそ、自分の感情をどこか遠くから眺めているような、そんな客観的な視点が必要不可欠だ。


そしてもちろん、これはゴルゴ13にも当てはまる。
人の感情を動かす・・・とはまた異なるかも知れないが、彼は狙撃の依頼を完璧にこなすことで依頼人に満足感や安心などを与えている。

そのために毎年山にこもり、運動した後で心拍数を計測したりして、「データとして」自身の能力・コンディションを見ている(
ゴルゴ13 (Volume87) バイオニック・ソルジャー (SPコミックスコンパクト))。
他にも個人用豪華ヨットを所有していて、その中で自分のためだけの医者を用意し人間ドックを行ったり(
別冊ゴルゴ13シリーズ〈46〉 ミステリーの女王・PRIVATE TIME・薔薇の下で)、とにかくプロとしての自身の客観視には舌を巻く。



自由とだらしがないこととは違います。そのことをはっきりさせておいてください。

この「まだ見ぬ書き手へ」を読んで一番グサッと来たのがこれ。分かっていてもちょいちょい忘れちゃうんですよねえ・・・。

私の好きなゲームのひとつ「ワイルドアームズ アドヴァンスドサード」の劇中のセリフに

【自由】とは、全ての【由】を、【自ら】に求める事!自分で考え、自分で動き、結果、自分で自分の責任(ケツ)をもつ事で、自分の存在、その瞬間を創っていくことなんだッ!!

という名言が出てくるのだが、まったくもってその通り。うげえカッコいい。


自由ほど難しいことはなくて、自分を抑えてくれる他者が存在しないがゆえに、ちょっと気が緩めばあっという間にカスの仲間入りができてしまうのが「自由」。丸山氏が言う「だらしがない」になることなんて恐ろしく簡単なのである。


中途半端に自由を求めるくらいなら、会社とか家族とか、何かに縛られていたほうがよっぽど楽なのだ。これは24歳に過ぎない自分ですらひしひしと感じていたりする。


ゴルゴ13だってその生活は本来自由の極みであって、彼のような仕事ぶりならばすでに一生贅沢をしても余るほどの預金があるはずなわけで、いつ引退して悠々自適な生活をしてもいい状態。私なら速攻足を洗っているところだ。

仕事を受けるのも自由、いつ何をするのも自由、自由に使える金は使いきれないほどある。
こんな状態のゴルゴ13は、そんな自由を人間ドックやトレーニング、新しいライフルの開発の依頼に使ったり、弾薬の試射につかっらりする。数少ない別荘での休暇エピソードも、その別荘のドアは強化された鉄板で窓は防弾、さらに地下には核シェルター完備という始末。

つまりゴルゴのような生き方こそが丸山氏の言う「自由」なのだろうと思う。自身のために一時も気を抜かない姿勢と行動。極端なきらいはあるが、見習うべきところは多い。



さて、この「まだ見ぬ書き手へ」。
夏目漱石を批判するとか、食事は一日2回を強制する(おすすめではなく「一日二食にしろ」という書き方なのだ)とか、とにかく全編通して作者が強い強い。
現代文学界の堕落っぷりを繰り返し繰り返しずっと書いたり、政治と文学は分離しろって話は某都知事をはっきり批判。つまり石原元都知事はろくな小説をもう書けないってことになる。



もはやここまでくると、跳ねっ返りの私なんかはこの人の書いた小説を読んでみたいものです。
もし読んでみて、この人の小説読んでなんとも思わなかったらどうしよう。ここまで書いてるんだから、結構な割合で私を感動させてくれないと失望するよね、正直。でも「書き手も編集もそうだけど、読み手も堕落してる」とか書いてるからなあ。私が堕落した読み手になっているとしたら分からないかもしれない。


ともあれこの本は、ある種の社会不適合者に向けて書かれた小説指南といったもの。ぬるい気持ちで目指そうとするならやるな、むしろ「人生とかくそつまんねー」と言いながら無為に生きている人に「お前みたいなやつこそ本当の文学ってもんが書けるんじゃねーのか」と発破をかけるような一冊となっている。


なんか、ほら。いまニートしている方なんか、一度読んでみてもいいかもしれない。あとはどこの職場に行っても受け付けない感じの人。自殺したい人とかも。
そういう内へ内へ入っていくエネルギーや、絶望的なネガティヴィティをぎりぎりのところで文学に転化することが、ある種この本でいうところの「本当の文学」なのではないかと思われる。
「死」を概念ではなくて、生の手で触れているような感覚をもたらすような文学を。「愛」をくだらないベタベタした青春などではなく、肉体的でも精神的でも哲学をも超えた何かで表現しうる書き手を。


私にはその地点に到達するのはとても無理だ。だから小説家として飯を食っていくことはすっぱり諦める。
でも確かに、丸山氏の言うような書き手が書く物語、読んでみたいものだ。


その前に丸山氏の小説読んでみようと思いますがね。

風を見たかい?

風を見たかい?

まずはこの短編小説から行ってみようと思う。


新装版 まだ見ぬ書き手へ ( )

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