心の雑草

「げ」と申します。心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

努力を減らす才能



努力という才能 - 脱社畜ブログ
読ませて頂いた。努力信仰に否定的な私なりに思うことがある。


「努力」ってのは、まあ程度の差はあれど誰にでも平等に成長をもたらす有効なツールであることに違いはないんだけど、「努力できる」ことは先に紹介した記事で書かれているように一種の才能であり、私のように努力する才能に恵まれていない人間もたくさんいる(と思う)。


「努力したから成功する」では言葉がたりなくて、この言葉の前置きに“適切な”とか“正しい”が入っていないと、私は気持ちが悪いのである。


エジソンの有名な言葉に「1%の閃きと99%の努力」というのがある。
これ、本当の意味はというと「1%の閃きがなければ99%の努力は意味がない」なのだ。

最初のひらめきが良くなければ、
いくら努力してもダメだ。
ただ努力だけという人は
エネルギーを無駄にしているにすぎない。

だそうで。


ビートたけしさんの言葉にも、こんなものがある。

何に対して努力するのか、どの部分にどれだけ努力をそそげばいいのかを見極める才能ってのが、まず最初に必要なんだよな。ただヤミクモに汗水たらして努力したって、しょせんは自己満足。必ずしも報われるって保障はどこにもないってことだよね。

この言葉、本当に好きで、私が言いたいことが全部詰まっていてスカッとする。


「努力を最小限で済ます才能」ってのがあるんじゃないのか?
努力を始める前に、努力を向ける先をしっかり見極める力だって立派な才能だ。


「努力する才能がないので、努力出来ないからハイ終わり」って、そんなつまらない話はない。

どうにも努力は美化されて語られるけど、そこで語られるのは総じて結果が伴った努力だし。
そんなもん後から語れば美しいに決まっている。



「努力」っていう同じ土俵で戦うから負けるだけ。
努力が才能だというなら、こっちは他の才能で戦えばいいだけだと思う。


幸い私は「考える」という才能がある(と自分では思っている)。どうやったら努力を最小限に結果を得られるかを考え、その努力自体もよりスマートに済ませられるように考えていく。

だって考える余地のないような単調作業的な努力、つまんねーじゃないですか。


とりあえず努力を美化しているのはなんというか社会とか風潮なだけだから、各自自分の武器を振りかざせばいいだけだと思う。
例えば「見る」ってことに強いなら、努力の内容を視覚的なアプローチに意識を変えればいい。見て盗むタイプ。
読書を日常的にする人なら、苦にならない読書というもので努力を補完すれば実際の努力がスムーズに進むだろう。
ただ漫然と努力をする前に自己分析だ。努力が苦手なら努力を減らしても同効果が得られるように武器を扱えばいい。


その武器を見つける「努力」だけは必要だけどな。