心の雑草

「げ」と申します。「旅=人生」というライフスタイルをめざして、心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

未来と過去

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Twitterで良くお話をさせていただく高校生の子がいるのだが、突然この子が

未来ってどうせ過去になるんだよね。それなら過去を気にするのはもちろん、未来を気にするのも無駄だよね。

とつぶやいていた。これは面白い。

さて、本当に「未来も過去も無駄なもの」なのか?
実はほとんど同じことを学生時代のゼミにて考えたことがあるので、その時のことも踏まえて少し考えてみようと思う。


学生時代に考えた課題というのは「もしもタイムマシンができたとしたら未来と過去、どちらにもいけるのだろうか?」というものだった。
私は直感的に「未来には行けるけど、過去には戻れないだろう」と思ったものだ。
「過去」があった空間には常に「今」が生まれ続けている。仮に過去の世界が違う場所に存在するパラレルワールドだとしても、それは厳密には「過去」ではないしね(この辺の話はジョン・タイターという人物について調べると幸せになれるよ!)。
つまり「過去」は「今」によって上書きされ続けていくので存在は消滅していくために戻れないと考えたわけだ、当時の自分は。
一方何故未来には行けると思ったのかと言えば、それは「これから生まれる」からだ。時間を飛び越えるのではなく、加速させることで未来に行くというのならば「未来行きのタイムマシン」はあり得るんじゃないかという直感だった。双子のパラドックス的にも「高速で移動している物体の中にいる乗組員は年をとるのが遅くなる」ので、結果はタイムワープと同義だし・・・とかね。

まあそんなことを考えていたわけです。
でも今回の主題はここではない。
「未来と過去に意味はあるのか」である。

ぐだぐだ書いててもまとまらなくなりそうなので、一晩考えた自分の考えを書こうと思う。まとまってないから読みにくいことこの上ありませんが、なにとぞご容赦ください。

未来や過去そのものに意味はない。ただそれらを思う気持ちが「過去からつながる今」や「未来のための今」を作る。「今」のために未来と過去はあるのだと・・・。

なぜ歴史を書物に残してきたかといえば、それが「今」において意味を持つからだ。「織田信長の天下布武」は現代人にとっては意味をなさないが、織田信長が生きていた「今」においては意味を持っていたし、彼によってなされた日本の政教分離や経済感覚の改革などは過去ではなく今、現在進行形で意味を持っている。これはなんというか「過去そのものに意味がある」というのとは少し違う気がしている。
我々はそういった「過去」が記された資料を通して「今」学ぶことで、今に生かそうとしている。そういう営みだと思う。
「過去」という時間空間的広がりには意味はないが、それらの蓄積である「今に残されたデータ」には意味がある、みたいな感じだ。

さて、未来。未来という時間空間的広がりそのものにもやはり意味はない。ちょっとカッコイイことを言えば、未来に意味を持たせられるかは個人個人の「今」次第ってわけだ。
過去というデータから今を積み重ねていった先にあるものが、「神様お願いします」のような他力本願の願望ではなく「ここまで自分はこういうことをしてきたから、おそらく未来はこういうことが起こるだろう」のような、ある程度正確性をもった予測としての未来を視ることができるのならば、未来のために今があることになる。

そもそも「今」「我々」が干渉できるのはなにをどうしたところで「今」だけですからねえ。

過去を思うことは今を変えること。こうだったから今はこうなのだという反省や充足を得て、今を生きる。
未来を思うことは今を変えること。こうありたいという未来を願望から予測に変えるために今を生きる。


さて、何故に「過去も未来も無駄なもの」って考えが生まれたのかを勝手に考えてみよう。
早い話がこの論理の「過去と未来」ってのは、どこか薄汚いものなのだと思うのだ、私は(おっしゃった本人がどう思ってのつぶやきかは分かりませんが)。

「すがる」対象としてそれらを認識することで意義がロストする。特に過去。
今を正当化するための道具として過去を振りかざし始めると本当に嫌気がさす。
「オレのほうが経験豊富だから黙って言うこと聞け」みたいなスタンスとかね。年功序列って言葉が嫌いなのはそういうことです。
数年前に金沢に行ったことがあるのだが、あの町は武家町や庭園やら、前田藩の残した歴史的遺産とでも言おうか、それらが町に溶け込むように残っていて、風情があり素敵な町だったのだが、そう、それこそある意味では「過去にすがっている町」だと思ったのだ。
金沢の町には「今」が欠落している。過去を残すことが最重要になりすぎて、残している過去から「今を変える」というところがないような気がした。良くも悪くも時が止まっているのかもしれない。

過去と未来を今を正当化する道具にしてしまうと、それらの輝きはあっという間に消え失せる。今を変えるための過去と未来として、ある種の崇高さのようなものを持たなければならないだろう。



願いではなく予測になるくらいに積み重ねた先の「未来」があるのなら、「今」に意味はあるだろう。
それが行われたために積み重ねた「過去」なら、その結果の「今」に意味はあるだろう。


ゲーム「ヴァルキリープロファイル」のセリフを思い出しました。

想いは時を超える。心の糸をたぐり寄せて、私は戻ってきたぞ。

未来と過去に意味はない。
それを想う時を超えた意志が、過去と未来を「今」に結合するのだ。

うーん。今回は恐ろしくまとまらない記事になってしまいました。反省。