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心の雑草

「げ」と申します。「旅=人生」というライフスタイルをめざして、心の雑草を抜いては肥料に変えていくブログ。

「努力」の本質は量より質である

自分は努力を「量」で推し量ることが嫌いだし、それで推し量る人も信用できないと思っている。

“努力は量より質だ。テスト前にテスト範囲外を一生懸命勉強してる奴がいたらどう思いますか?そういうことだ。”

昨夜これをウイスキーを一杯やった頭でつぶやいて寝たんだけど、朝起きたらここから色々発動してしまったので色々暴走した。それをまとめます。
というわけで今回はほとんど「自分のつぶやきまとめ」という感じですが、代わりに結構遠慮ない言葉が放出したと思う。
そんなわけで自分のつぶやきに少し突っ込み入れながら紹介していこうと思う。



“寝る前に「努力は量より質だ」なんてつぶやきましたけど、俺は努力の量にすがって「これだけ頑張ってるんだ!」みたいなことを誇る奴が嫌いなんですよ。その努力が正しい方向に向かってなかったらただのバカだからな。”
“それを誇っていいのは、その大量の努力できっちり結果を出して「努力の方向」の正しさが証明されてからだよ。努力の量なんて俺はさほど評価しないよ。”

この二つでセットかな。例えば楽天のマーくんがすげえのは努力の量もさることながら、前提として努力の内容が間違ってなかったからなのは疑いようがない。間違った努力を続けていたとしたら25連勝なんて不可能だろう。
だから彼は「努力の量」も誇っていいと思うのだが、「努力の量」を誇れるのは正しい努力がきちんと出来ているひとだけだ。

“ 極論「どれだけ少ない努力で最高の結果を導き出せるか」だと思ってる。だから「どういう努力が最短で最善か」を考えることに対して一番努力しないといけないんです。”
ぶっちゃけ自分は努力が嫌いなので(先にマーくんの例挙げといてアレですが)、効率の良い仕事とかそういうことを求める時に、この考え方は外せないはず。

“「こんなに頑張ってるのに……」って思う人は、まずやってること自体を見直した方がいいんじゃないですかね”
「努力量」にすがっている人の典型的落とし穴。自分の努力の方向自体が間違っている可能性を考えない。

“自分が当たり前のように長生きできるとか勘違いしてるんじゃないだろうか。人生なんて何があるか分からないんだから明日には車に引かれて死んでるかもしれないっつーのに。”
有限な人生で無駄な努力してる暇なんてないってことを言いたかった。「なんでも経験だ」とかいう言葉も一理あるが、「経験すべきことを自分の頭で取捨選択する」ことも大事な経験ですよ。

“頭使え。頭使え。頭使え。先に頭使って自身に指示を出さないから身体が無駄なアクションに引っ張られるんだ。”
頭→身体の順で動けばあらゆることのミスは激減するはず。最後は極めて逆転するが(武術や格闘技に顕著)、それは「頭→身体」の「→」がどんどん短くなっていった先の終着点。やろうとおもってやることじゃない。

“頭使わない人は本当に受け付けない。「頭使えない」じゃなくて「頭使わない」人。使えないなりに使おうとしているならむしろ好感持てるし力を貸そうと思うんだが。使おう使おうとしていれば回路できてきて使えるようになるから。”
その通り。これは自分のスタンスですね。

“つーか頭使えない人ってのはいないんじゃないか?「使う人」「使い方が分からない人」「使おうともしない人」の3つか。こう考えると最後のはもはや。”
最後に良いこと言いましたワタシ。

努力量で周囲や自己を正当化しようとするのは、結局自分が努力の質を思考しながら努力していないことの証明になりうると思うのだよ。
「努力していること」自体に意味があると思っているのだろうか。そういう感情論で結果がついてくると?
当たり前の話だが、意味を持つのは「努力の内容」だ。

1回の経験で10のことを得るのと、10回の経験で10のことを得るのとを比較すれば、「質を高めること」の価値がよくわかると思う。努力の量が増えれば増えるほど有利になるのだから。

「努力の量」を免罪符にする、甘ったれた「思考」は今すぐに捨ててしまえ。