本日3つ目の記事です。仕事が昼夜問わず入ってたりするとなかなか毎日書けず悩ましい。書きたいことは増えていくから、こうして休日にまとめて書いたりして。
こうやってブログで「言葉」を紡いでいる身で言うのもどうかと思うけど、うまいこと適切な言葉が見つからない感情や考えはそのままにしておいていいんじゃないの?と最近考えてる。
無理やり言葉に当てはめると、どこか陳腐なものに、空虚なものになっていくと思う。
言葉には力があり、便利なものではあるけれど、それは全知全能って訳ではない。
「初めに言葉があった。」なんて聖書は語るけど・・・。
自分は自分が「自分として生きる」ための心の柱、筋、一本の芯みたいなものがある。人によっては「正義」とか、そういうやつ。
それは自分にも間違いなくあって、人生の要所要所でそれをコンパスにここまで来たという実感もあるんだけど、未だにそれを的確な言葉で表現できずにいたりする。
数年前まではそれをなんとか人に伝えられるカタチにしたいと思っていて、いろいろ言葉を探し求めたりしていたんだけど、もうそれはやめた。
結局今ある言葉では表現できないものだってことだからだ。それは細分化していけば「良心」とか「思考」とか、そんな風に要素として切りだせるけれど、自分の芯ってのはそれらの足し算によるものではなくて、初めからそれら何種類もの要素が一つとして成立しているからなのだ。
そういうのは例を挙げたらいくらでもある。
哲学に少し興味があれば分かるのだけれど、哲学という学問は探求の末に「今ある言葉では説明できないこと」にぶち当たることが結構ある。そんな時に一生懸命いろいろと言葉を連ねて連ねてなんとか表現しようとしたりする。
これを「詩的言語」なんて呼んだりするんだけど、当然本来伝えたい言葉が存在しないので代わりの言葉を当てる形だから、「伝えたいこと純度100%!」ということにはならない。学問だからやむを得ず的な側面はあると思う。
マンガで見てみよう。
例えば自分が愛読している「ジョジョ」と「カイジ」。
ジョジョでは何か得体のしれない恐怖が迫っているような場面の擬音として「ゴゴゴゴゴ」や「ドドドドド」という表現が使われる。
今ではそういう定義として成立したこの音だが、知らない人からしたら「このマンガのこの擬音なにさ?」となるのは当たり前。表現したいのは音ではなくて気配や空気感、はては恐怖や不安という感情そのものだったりするのだから。
カイジをはじめとする福本作品では、これまた有名な「ざわ・・・」がある。
周囲の人間のざわめきを表す「ざわ・・・」のほかに、登場人物の内面における謎の不安や直感の走り、それらを表す「ざわ・・・」もある。後者はジョジョにおける「ゴゴゴ」「ドドド」と同じ技法だ。
マンガならではの「詩的言語」とも言えるこれらは、マンガであるが故にある種「明確な言葉にできなくていい」ということを活かし、画と力とで「言葉にできないこと」を「言葉にできないまま」表現するツールなのだろう。
映画。
この映画は演者さんの表情や立ち振る舞いによって、言葉では表現しきれないし表現すると安っぽくなるような感情や想いを存分に堪能できる作品だった。
日本映画は特に凄い気もするが、セリフがない静の場面で、これほど観る者の心を揺り動かすのは「言葉では言い表せないもの」を表現しているからに他ならない。
ラストシーンの渡辺謙の表情は本当に感慨深いものがあった。
そういや若者言葉の「ヤバい」もそんなニュアンスがあるかもしれない、といま思ったりして。語彙力ないだけなら話は変わるけど、「適切な言葉が見つからねえ」って意味では、同じかもね。
そんなこんなで「言葉にできないことはそのまま抱えてていいじゃん」と最近は思うのである。言葉にできないものは「言葉にできない」と伝えればいい。
小田和正も歌ってるでしょ?
うれしくて うれしくて 言葉にできない